愛知県津島市にある津島神社は全国の天王社の総本社。祇園精舎の守護神、牛頭天王(ごずてんのう)信仰の中心となる社ですが、実は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑(戦国三英傑)も尊崇。江戸時代までの呼称は、津島牛頭天王社、三英傑との深い関わり合いを紹介します。
織田信長と津島神社
信長にとっての氏神で、津島湊の繁栄をベースに尾張国統一を実現

津島神社(津島牛頭天王社)は、濃尾平野を形成した木曽三川(きそさんせん=木曽川・長良川・揖斐川)が合流する平野の末端部、伊勢湾に注ぎ込む直前に建っています。
津島湊(つしまみなと=木曽川の支流・天王川の川湊)という貿易港を有し、津島の津はまさに港、港のある島(川によって形成される島)というのが地名の由来です。
清州城を本拠とする織田信秀(おだのぶひで=織田信長の父)は、当然、津島湊を重要視し、この津島湊と津島牛頭天王社を掌握することで、勢力の拡大につなげています。
那古野城(現・名古屋城)に移ってからも重要度は変わりません。
織田信長は、本拠を那古野城から清州城へ移し、さらに津島湊、津島牛頭天王社を重要視します。
桶狭間の戦いへの勝利なども、津島湊の掌握という経済的な側面があったと推測できるのです。
津島は「織田信長の台所」とも称され、有名な『天王祭』の観覧なども行なっています。
津島神社の神紋は、織田家ゆかりの木瓜紋(もっこうもん)であることからも、その深い関係性がよくわかります。
信長にとっての氏神は津島牛頭天王社で、社殿の造営、修復にも尽力しています。
豊臣秀吉
天下統一後にご利益へのお礼で楼門を寄進

清洲城下に足軽として暮らした時代から、津島湊の繁栄と経済力、そして津島牛頭天王社の全国に轟く力(津島社家を中心に、津島御師が全国に普及活動を実施、全国の村に旦那と呼ばれる信者が存在)を目にしていた秀吉が、それを逃すはずはありません。
現存する楼門は、天正19年(1591年)着工で、豊臣秀吉が寄進したもの。
前年には、小田原征伐で後北条氏を滅ぼし、全国統一を成し遂げているので、ご利益のお礼に寄進したとも推測できます。
楼門には明治維新までは仏像が置かれており、神社を管理する神宮寺の山門としても機能していました。
南門は豊臣秀頼の寄進と伝えられるので、豊臣政権中枢がいかの津島牛頭天王社を重視していたのかがよくわかります。
徳川家康
信長、秀吉との深い関係性を目にした家康も、津島神社を重視

織田信長と清洲同盟を結び、同盟関係にあった家康。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に勝利すると、家康はその功績で四男・松平忠吉(まつだいらただよし=徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿)に尾張国・美濃国、合計52万石を与え、清州城を本拠としています(井伊直政と松平忠吉が偶発的に先陣を切っています)。
家康も津島湊の繁栄と、津島牛頭天王社の社家の力を重視していたことが伺えます。
現存する本殿は、この松平忠吉の健康を祈願し、忠吉の妻、政子(井伊直政の娘)の寄進です。
徳川家康からのアドバイスがあったのかもしれません。
松平忠吉は、腫物を患っていたため、何度も湯治に出かけていますが、慶長12年(1607年)、28歳の若さで没しています。
清州城を継いだのが九男・徳川義直(とくがわよしなお)でしたが、慶長15年(1610年)、城下町ごと名古屋に移すという「清洲越し」によって、尾張徳川藩の藩庁は、名古屋城へと移っています。
それでも江戸時代には、「伊勢津島、両方詣らにゃ片詣り」と称されるほど、津島信仰は隆盛。
将軍家や尾張徳川家の尊崇があったからの繁栄ともいえるでしょう。
| 三英傑(信長・秀吉・家康)ゆかりの古社、津島神社とは!? | |
| 名称 | 津島神社/つしまじんじゃ |
| 所在地 | 愛知県津島市神明町1 |
| 電車・バスで | 名鉄津島線津島駅から徒歩12分 |
| ドライブで | 東名阪自動車道弥富ICから約7km |
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