富山は藩政時代から「越中売薬」が有名で、現在の配置家庭薬というスタイルを築きました。廣貫堂は、明治9年に薬売りの共同出資により設立され、和漢薬を中心に製造する配置薬の老舗。廣貫堂資料館は富山の薬売りの歴史と製造工程を紹介する博物館で、懸場帳(かけばちょう)や売薬版画などが展示されています。
富山の売薬と北前船の交易との関係を学ぶことができます
江戸時代には富山の売薬行商人は、薬以外のものを扱うこと、旅先から商品を仕入れてくることなどが厳しく制限されていました。
廣貫堂は、明治9年、富山町の中田清兵衛(なかたせいべえ=薬種商)ら5人が願い出て設立した製薬会社。
初代の社長には旧富山藩士で、反魂丹役所(はんごんたんやくしょ)の勘定方だった邨沢盛哉(むらさわせいさい)が就任しています。
五段重ねの柳行李(やなぎごうり)に入れて持ち歩いた懸場帳(かけばちょう)は、薬売りが来訪先の使用薬の種類・使用量・回収薬から支払明細、さらには家族構成、その健康状態に至るまでの詳細を記した帳面。
購入先のカルテのような内容が含まれており、それを元に顧客の健康アドバイスなども行なっていたのです。
資料館の来館者は栄養ドリンク剤のサービスが受けられるほか、胃腸薬の「胃腸反魂丹」(いちょうはんごんたん)、「熊膽圓S」(ゆうたんえんえす)、「広貫堂複方熊膽丸」(こうかんどうふくほうゆうたんがん)、「廣貫堂赤玉はら薬S」(こうかんどうあかだまはらぐすりえす)、強心薬の「虔脩本方六神丸S」(けんしゅうほんぼうろくしんがんえす)、「虔脩感應丸」(けんしゅうかんのうがん)、など広貫堂の薬を購入することも可能。
蝦夷地(えぞち=現在の北海道)で産した昆布は富山の売薬商人を介して琉球(現在の沖縄)から中国へと運ばれ、北前船の下り船では中国からの和漢薬の材料が密かに運ばれたのだという。
熊も生息した立山を控えたというだけでなく、富山の製薬は北前船の交易に支えられたのです。
そんな昆布ロードの歴史を資料館では学ぶことが可能なので、ぜひお立ち寄りを。
胃痛、腹痛の薬として有名な反魂丹。江戸時代、富山藩第2代藩主・前田正甫(まえだまさとし)は、万代家11代目・万代常閑(まんだいじょうかん)を堺から呼び寄せ、万代家に伝わる秘薬「万代の反魂丹」を改良し、独自の「反魂丹」を開発。常に印籠に入れて持ち歩いていました。
1690(元禄3)年、江戸城内で、三春藩3代藩主・秋田輝季(あきたてるすえ)が激しい腹痛を起こした際に、前田正甫は、印籠から「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちどころに回復。江戸城中の話題となりました。
前田正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させたので、越中売薬という産業が生まれたのです。
さらに1765(明和2)年、6代藩主・前田利與(まえだとしとも)は、藩営の反魂丹役所を設立。こうして売薬産業が確立したのです。
明治維新で藩がなくなると反魂丹役所も廃止され、その伝統は廣貫堂(広貫堂)に受け継がれたのです。
江戸時代の反魂旦には龍脳(ボルネオール)など劇薬成分も含まれていましたが、薬事法の関係で現在の反魂丹は往時のものとは異なる成分になっています。
廣貫堂資料館 | |
名称 | 廣貫堂資料館/こうかんどうしりょうかん |
所在地 | 富山県富山市梅沢町2-9-1 |
関連HP | 廣貫堂資料館公式ホームページ |
電車・バスで | JR・あいの風とやま鉄道富山駅前の富山駅前電停から富山地方鉄道の市内電車南富山駅前行きで9分、広貫堂電停下車、すぐ |
ドライブで | 北陸自動車道富山ICから約4km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 廣貫堂資料館 TEL:076-424-2310/FAX:076-424-1160 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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