国産鉄砲の歴史は定かでありません。戦国時代に種子島に漂着した南蛮船(ポルトガル人)がもたらしたという鉄砲(火縄銃)。長篠の合戦で使われた鉄砲のうち、500挺は、近江国・国友(滋賀県長浜市国友町)の製造。中世に鉄砲の一大工場となった国友の歴史は、意外に知られていないのです。
種子島に伝来した鉄砲を分析し、国産鉄砲が誕生!
江戸時代初めの慶長11年(1606年)に、種子島久時(種子島氏第16代当主)が編纂を命じた『鉄炮記』によれば、戦国時代の天文12年(1543年)、種子島氏第14代当主・種子島時堯(たねがしまときたか)が「佗孟太」(アントニオ・ダ・モッタ)、「牟良叔舎」(フランシスコ・ゼイモト)というポルトガル人から鉄炮2挺を買い求めたのが、鉄砲の伝来としています。
その2年後の天文14年(1545年)、美濃国関(現・岐阜県関市)出身で、種子島に移住していた刀鍛冶・八板金兵衛が種子島時尭の命により国産火縄銃第一号を製造しています(西之表市の「種子島開発総合センター鉄砲館」に常設展示)。
一方、『國友鉄砲記』によれば、国友の鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)2月、国友善兵衛が将軍・足利義晴から管領・細川晴元を通して見本の銃を示され、6ヶ月後に6匁(もんめ)玉筒2挺(ちょう)製造したのが始まりとしているのです(国友の銃製造の始まりは諸説あり定かでありません)。
『國友鉄砲記』には、種子島でポルトガル人。牟良叔舎(フランシスコ・ゼイモト)から、譲り受けた1挺は薩摩の島津義久に贈られ、島津義久はこの年の天文12年(1543年)12月2日、これを将軍足利義晴に献上。
足利義晴が鉄砲鍛冶を探したところ、近江国坂田郡の国友に善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫らの鍛冶のいることを知り、見本の鉄砲1挺を渡して製作を依頼。
8月12日、玉目6匁の鉄砲2挺を将軍に献上し、さらに数多くの鉄砲を献上したと、かなり具体的に記されているのです。
「うつけ者」といわれた青年時代の信長が鉄砲製造を依頼!?
『國友鉄砲記』には、その後、天文18年(1549年)、鉄砲の威力を知った織田信長は、鉄砲の名人・橋本一巴(はしもといっぱ)を召し抱えて鉄砲製造方につけたと記しています。
信長旧臣の太田牛一が記した『信長公記』(しんちょうこうき)にも、天文19年(1550年)頃、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて稽古したことが記されています。
天文18年(1549年)といえば、まだ美濃国・斎藤道三(さいとうどうざん)の娘・濃姫が織田信長に嫁いだ年。
竹千代(後の徳川家康)が今川の人質として駿府へ移ったのもこの年です。
そんな時代に、すでに信長は鉄砲に注目していたのでしょうか?
『國友鉄砲記』はさらにその後の国友の4人の鉄砲職人となった鍛冶職人の動向を記述しています。
橋本一巴は天文18年(1549年)7月18日、善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫らに6匁玉の鉄砲500挺を注文(天文18年2月24日に信長は濃姫と婚姻)。
『信長公記』に、若き日の信長が「うつけ者」だったとか、後世の物語にうつけ者を演じていたと記される時代に、信長は橋本一巴に命じて、鉄砲製造に取り掛かっていたことになります。
「うつけ者」というイメージに反する内容ですが、実は信長は、自軍の槍の長さを三間(約5.5m)、もしくは三間半(約6.4m)に統一するという兵農分離前の兵隊には画期的な改善も指示じているのです。
天文19年(1550年)10月21日にその500挺が完成。
しかも信長が家督を継ぐのは天文20年(1551年)、『國友鉄砲記』に記される鉄砲注文の話は後世の創作かという疑念も湧きます。
ただし、史書などの裏付けでは、天文24年(1555年)頃にはすでに国友村で鉄砲が製造されたことが記されているので、早い時代に鉄砲製造に取り掛かっていたことがわかります。
永禄7年(1564年)の犬山城攻略で、さらに鉄砲に注目した織田信長は、元亀2年(1571年)1月17日、長浜城主・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に城を破壊する威力のある大筒(大鉄砲)の製造を命じ、藤吉郎は国友鍛冶に製造させています。
善兵衛ら4名は玉目200目、長さ9尺の大筒2挺を製造し、元亀2年(1571年)11月6日に信長の居城・岐阜に届けています。
もし、これが事実なら、比叡山の焼き討ち(元亀2年9月12日)直後に、信長は国産の大筒2挺を手に入れたことになります。
天正元年(1573年)、小谷城が落城し浅井家が滅亡すると、秀吉に命じて国友の鉄砲づくりを奨励します。
天正2年(1574年)、国友藤太郎に、知行100石を与え、河原方代官職(姉川の河川修復や堤防工事支配する代官)を命じ、国友鍛冶を配下に置いています。
天正3年(1575年)に織田・徳川連合軍と武田軍が激突した長篠の合戦で使われた鉄砲3000挺のうち500挺は、信長から受注を受けた国友鉄砲が使われているのです。
国友村で製造された鍛冶銘は「国友」姓で統一されて、鍛冶集団が暮らす村全体が中世から近世の工業団地のようになっていったのです。
本能寺の変で信長が討たれた後は、湖北の重要性を熟知した秀吉が国友を領有し、豊臣秀吉の御用商となり発展します。
天正18年(1590年)の小田原攻めでは、国友鉄砲が使われていますし、文禄元年(1592年)の朝鮮の役にも国友の鉄砲が活躍しています。
家康も国友鍛冶を重宝し、大坂の陣にも大筒を活用
徳川家康は1604年(慶長9年)、国友鍛冶惣代(くにともかじそうだい)を江戸に呼び出し、800匁(もんめ)玉筒、50匁玉筒を発注製作を国友に大量発注。
さらに慶長11年(1608年)になると、国友村の4名の鍛冶は駿河に招集され、直々に家康から鉄砲の製造を命ぜられて、鉄砲代官に就任しています。
慶長19年(1614年)「大坂冬の陣」、慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」では国友鍛冶も従軍。
「大坂冬の陣」では国友の大筒が、「大坂夏の陣」では中筒・小筒が使用され勝利に貢献しています。
「大坂夏の陣」の帰路、徳川家康は近江・永原館(現・滋賀県野洲市永原にあった将軍上洛の際の宿泊所)で4名の鍛冶に引見し、大坂の陣の働きぶりをねぎらい、国友村に900石を永代給与する約束をし、さらに摺針宿では白銀10枚を4名の鍛冶に与えています。
近江・国友村は徳川幕府直轄の日本最大の鉄砲生産地帯となったのです。
そんな国友村も、江戸時代の中期ころには平安の世となり、鉄砲の注文は激減。
鉄砲鍛冶は象眼細工と花火などの副業で暮らすようになっていきます。
は長浜祭りの曳山の見事な錺金具も鉄砲鍛冶が制作したものがあるのです。
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