薩長同盟締結直後の慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京・伏見の「寺田屋事件」で龍馬は負傷し、寺田屋事件でも助けられた薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)、西郷吉之助(西郷隆盛)の勧めで妻・おりょう(お龍)と温泉療養を兼ねて霧島を訪れています。これが「日本初の新婚旅行」と呼ばれています。
新婚旅行という言葉は、明治22年、honeymoonを、井上円了(いのうええんりょう=明治20年に東洋大学の前身・哲学館を創立)が「新婚旅行」と訳して東京日日新聞紙上で紹介したのが始まりといわれています。
しかし、honeymoonを訳したものには、前例があります。
明治16年に世に出た、坂本龍馬を主人公にした坂崎紫瀾の伝記小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)に、「自と彼の西洋人が新婚の時には『ホネー、ムーン』と呼びなして花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶ひたりとや謂はん」という記述があるのです。
『汗血千里駒』は、明治16年1月から高知の自由民権派の新聞『土陽新聞』に連載された小説(龍馬を初めて世間に紹介した小説)。
その連載36回目にすでにホネー、ムーン(honeymoon)という記述があるのです。
この坂本龍馬の「日本初の新婚旅行」に対しては、寺田屋事件で手に負った傷の手当が目的、西郷吉之助(西郷隆盛)の勧めがあった、おりょう(お龍=楢崎龍)は無理やりついてきただけという反論もあります。
たしかに江戸時代の伊勢参りや、農閑期の温泉湯治に夫婦で旅したというケースはあったと思われるのですが、京から南九州・霧島へという遠距離、寺田屋事件で殊勲のあったおりょう(お龍)、2年ほど前の元治元年(1864年)8月1日に龍馬はおりょうと内祝言を挙げていること、「新婚旅行」前年には日本初の商社・亀山社中(長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や新婚旅行の帰路に乗船の蒸気船ユニオン号を購入)を結成していることなどから、十分に西欧のホネー、ムーン(honeymoon)を意識していたとも考えられるのです。
それが証拠に、薩摩への船旅の船上で、龍馬が「天下が鎮まったら汽船を造しらえて日本を巡ろう」というと、お龍は「家などいりません。船があれば十分です。外国まで廻ってみたいです」と答えているのです(お龍58歳の時のインタビュー記事『反魂香』)。
司馬遼太郎は、その著『竜馬がゆく』(世の坂本龍馬像のベースを形成した長編時代小説)のなかで、勝海舟(かつかいしゅう)から西洋風俗の「新婚旅行」のことを聞き、「縁結びの物見遊山だぜ」と、竜馬がお龍を連れての霧島旅行(新婚旅行)を決意したとし、「この風俗の日本での皮切りは、この男であったといっていい」と断言しています。
霧島市や鹿児島県が「龍馬・お龍日本最初の新婚旅行地」と宣言し、「大切な人と一緒に出かけてみませんか?」とPRするのも、この司馬遼太郎のお墨付きがあるからなのでしょう。
そんな「日本初の新婚旅行」に旅立ったのは、坂本龍馬30歳、お龍25歳(ともに現在の満年齢で計算)のことでした。
では、その行程を紹介しましょう。
龍馬新婚旅行ゆかりの地(1)日当山温泉
おりょう(お龍)を連れた坂本龍馬は、小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井友実らとともに薩摩藩船「三邦丸」で大坂を発ち、慶応2年3月10日(1866年4月24日)に、鹿児島・天保山に到着。
小松帯刀の別邸に滞在後、3月16日(西暦4月10日)、錦江湾を船で浜之市湊に渡り(現在「新婚旅行渡しの地」の碑が立っています)、霧島を目ざして日当山温泉に宿泊します。
龍馬新婚旅行ゆかりの地(2)塩浸温泉
塩浸温泉(しおびたしおんせん)では、3月17日(西暦5月1日)から11日間にわたって手傷の治療に専念しています(龍馬の宿泊当時は鶴の湯)。
塩浸温泉に逗留したのは、温泉で鶴が傷を癒していたことから鶴の湯とよばれていたように、傷に特効があると知られていたから。
幕末には戊辰戦争の負傷兵の湯治にも使われています。
龍馬新婚旅行ゆかりの地(3)犬飼滝
塩浸温泉の滞在中には、日当山温泉から塩浸温泉への移動の途中、その轟音を耳にしていた犬飼滝にも立ち寄っています。
姉への手紙の中で、「陰見の滝其の布は十間も落ちて、中程には少しでもさわりなし。実、この世の外かと思われ候ほどのめずらしき所なり。此処に十日計も止まりあそび、谷川の流にて魚をつり、短筒をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし」と絶賛しています。
「霧島山の方へ行道にて日当山の温泉に止マリ、又しおひたしと云温泉に行。此所ハもお大隅の国ニて和気清麻呂がいおりおむすびし所、蔭見の滝(注/犬飼滝のこと)其滝の布ハ五十間も落て、中程にハ少しもさわりなし。実げに此世の外かとおもわれ候ほどのめづらしき所ナリ。此所に十日斗も止りあそび谷川の流にてうおゝつり、 ピストヲル 短筒をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし」(姉・乙女へ書き送った書簡/慶応2年12月4日 )
龍馬新婚旅行ゆかりの地(4)高千穂峰・霧島神宮
その後、3月28日(西暦5月12日)、栄乃尾温泉(えのおおんせん)に小松帯刀(小松帯刀夫妻は3月14日〜4月8日の間、栄之尾温泉で湯治)を訪問した後、念願の高千穂登山にチャレンジしています。
慶応2年3月29日(1866年5月13日)、龍馬夫婦は、念願の高千穂峰に登山し、ミヤマキリシマの群落に感動しています(下山後は霧島神宮の別当・華林寺に宿泊)。
高千穂峰の山頂では、龍馬とおりょうが天の逆鉾を引き抜いて戯れた様子を、龍馬の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)への手紙に記しています。
滞在中に、霧島神宮を参拝し、御神木の樹齢千年近い大杉を見学しています。
この頃、下関では幕府の第二次長州征討が始まりつつあり、風雲急を告げる情勢になっていました。
「是より又山上ニのぼり、 あまのさかほこを見んとて、妻と両人づれニてはるばるのぼりしニ、立花氏の西遊記ほどニはなけれども、どふも道ひどく、女の足ニハむつかしかりけれども、 とふとふ馬のせこへまでよぢのぼり、此所にひとやすみして、又はるばるとのぼ り、ついにいたゞきにのぼり、かの天のさかほこを見たり。其形ハ是はたしかに天狗の面ナリ。両方ニ其顔がつくり付けてあるからかね也。やれやれとこしおたゝいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面があり(げにおかしきかをつきにて )、大ニ二人りが笑たり」
(姉・乙女へ書き送った書簡/慶応2年12月4日 )
龍馬・お龍「新婚旅行」日程表
慶応2年。()内は西暦換算です。
1月21日 (3月7日) | 坂本龍馬(前日に下関から京に到着)や中岡慎太郎の斡旋もあって小松帯刀邸(京都市上京区)で薩長同盟締結。 |
1月23日 (3月9日) | 定宿の伏見・寺田屋で薩長同盟締結の祝杯をあげる。 伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件「寺田屋事件」勃発。 お龍の機転で危機を脱して、伏見の薩摩藩邸へ逃走。龍馬は手の親指(左右)を負傷。 |
3月4日 (4月18日) | 大坂(現・大阪)で薩摩藩の蒸気内輪船「三邦丸」(410トン)に乗船して、小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井友実らと鹿児島へ。 |
3月10日 (4月24日) | 鹿児島着。その後、西郷隆盛邸、小松帯刀邸、吉井友実邸に宿泊。 |
3月16日 (4月30日) | 鹿児島から船で浜之市湊へ。 上陸後、日当山温泉に宿泊。 |
3月17日 (5月1日) | この日から塩浸温泉で湯治(11泊)。 寺田屋事件で受けた手傷の治療にあたる。 |
3月28日 (5月12日) | 栄之尾温泉で療養中の小松帯刀を見舞い、硫黄谷温泉に宿泊。 |
3月29日 (5月13日) | 高千穂登山。 下山後、霧島神宮に参拝。 神宮の別当・華林寺の宿坊に宿泊。 |
3月30日 (5月14日) | 帰路につき、硫黄谷温泉に再び投宿。 |
4月1日 (5月15日) | 塩浸温泉に戻って、再度湯治(7泊)。 |
4月8日 (5月22日) | 鹿児島へと向かい、日当山温泉で逗留(3泊)。 |
4月11日(5月25日) | 鹿児島への船待ちで浜之市湊で宿泊。 |
4月12日 (5月26日) | 浜之市港より乗船して鹿児島へ帰着。 小松帯刀の原良(はらら)別邸に長期滞在。 |
6月2日 (7月13日) | 亀山社中が操船する蒸気船「ユニオン号」(桜島丸)で天保山から出港し、帰途に。 |
6月17日 (7月28日) | 蒸気船「ユニオン号」、第二次長州征討の下関海戦に参戦(坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長)。 |
【知られざるニッポン】vol.47 日本初の新婚旅行は龍馬とお龍の霧島旅行 | |
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