山部赤人が東国に赴く道すがら、田子の浦を通って仰ぎ見た富士の姿を詠んだ有名な歌。「田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」。『小倉百人一首』にも選ばれ、「田子の浦ゆ」の短歌として有名ですが、実は山部赤人が詠んだ万葉時代の田子の浦がどこだったのかは、わかっていないのです。
山部赤人は実際に田子の浦に来たのか!?
初めに記した「東国に赴く道すがら」というのも、歴史的には裏付けがありません。
万葉歌人としても知られる山部赤人ですが、『続日本紀』などの正史に名前が見えないことから、下級役人だった推測され、聖武天皇時代の宮廷歌人だったことがわかるのみで、その足跡はさだかでないのです。
実際に、田子の浦に立ったのかといえば、それも疑問です。
見知らぬ不尽山(富士山)の光景を遠く離れた都で想像して歌ったという可能性も大なのです。
その反対に、山部赤人には、下総の真間の手古奈を詠んだ歌もあるので、東国赴任があったと推測する人も多いのです。
では、万葉時代(奈良時代)の田子の浦とはどこだったのでしょう。
地元でもいろいろな説があり、定かでないのですが、富士市の田子の浦港(ふじのくに田子の浦みなと公園)に「山部赤人万葉歌碑」が建立され、富士市の田子の浦がその場所であると宣言しています。
万葉時代の田子の浦は、かなり広域で、薩埵峠(さったとうげ)から東、現在の富士市にかけての広い海岸線を表す地名で、風光明媚で知られる蒲原(かんばら/現・静岡市清水区蒲原)あたりで歌ったのではないかと推測する郷土史家もいます。
東国赴任の途中、薩埵峠(さった)を海岸沿いの道で越え、由比・蒲原あたりの海岸で詠んだというのも、薩埵峠のドラマチックな風景からすれば、大いに可能性のある話。
それが証拠に、蒲原には山部赤人を祭神とする和歌宮神社が建っているのです(創建年代は不詳ですが、戦国時代の『信長公記』にも登場します)。
平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)に「廬原郡多胡浦浜」と記されていることから、田子の浦はかつての庵原郡(いほはらのこおり)、現在の静岡市清水区、あるいは富士川以西の富士市であることがわかります。
鎌倉時代の仁治3年(1242年)に記された『東関紀行』(とうかんきこう)には、蒲原宿と浮島が原(富士市須津地区を中心に沼津市にまたがる湿地帯に存在した沼群)の間に田子の浦があると記されていることから、鎌倉時代には蒲原から吉原にかけての海岸線が田子の浦ということに。
さらに、近世の安永年間(1772年〜1780年)に編纂された『駿府風土記』記載の地図には、浮島沼から流れ出す河口(吉原湊)にはっきりと田子の浦と記され、江戸時代にはすでに現在の田子の浦港一帯が田子の浦と称していたことが判明するのです。
もともと吉原だったのか、徐々に東へと地名が移ったのかはわかりません。
現在の田子の浦港は、かつての吉原湊。
昭和33年〜昭和41年の工事で、浚渫し、田子の浦港が誕生していますが、万葉時代にはここも砂浜と松林というのどかな光景が展開していました。
富士市では「唯一残る地名からも、狭い意味では富士川の東、吉原湊を中心とした浜辺一帯を指すのだとしてよさそうです」とし、蒲原説などには「四季を通じて富士山とともに暮らす私たち富士市民を納得させるだけの説得力はありません」(ともに『広報ふじ』平成4年・田子の浦港開港30周年 伝えたい潮風のメッセージ)とキッパリ断言しています。
田児之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留(万葉集巻3・318)
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