空海が開いた山上の霊地、高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)。江戸時代の初め、高野山には興山寺東照宮、大徳院東照宮という2つの東照宮があり、興山寺東照宮は廃絶(金剛峯寺に集約)しましたが、大徳院東照宮(寺は廃絶)が徳川家霊台として現存し、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産になっています。
東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋
大徳院は、天文4年(1535年)、家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)の遺骨が納められて、蓮花院から光徳院に改号し、松平家の菩提寺に。
さらに文禄3年(1594年)には家康が豊臣秀吉に随従して高野山に参詣し、光徳院に止宿して大徳院に改号しています。
寛永20年(1643年)、3代将軍・徳川家光が、東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋を建立したのが大徳院東照宮。
一重宝形造りの建物が2つ並び、右が東照宮家康公霊舎(おたまや)、左が台徳院秀忠公霊舎。
家康公霊舎に鳥居が建つのは、家康が天海大僧正の意見で東照大権現という神格で祀られたから(仏が仮に神の姿で現れること=権現)のため。
家康公霊舎の向拝の蟇股(かえるまた)には虎の彫刻、台徳院秀忠公霊舎には兎の彫刻が施されているのは、家康が寅年生まれ、秀忠が卯年生まれだから。
秀忠の兎の両脇に虎が彫刻されているのは、徳川将軍家の正当な後継者である秀忠を、死後も家康が守るということから。
境内東端には3代将軍以下歴代将軍と御三家の尊牌堂(そんぱいどう)もありましたが明治21年に焼失しています。
明治維新の神仏分離と廃仏毀釈の荒波は、高野山にも押し寄せ、明治2年に青厳寺と興山寺が合併して総本山金剛峯寺となっていますが、明治5年に旧興山寺の堂宇は全焼。
かつての興山寺東照宮の部材は堂宇再建に使用されています。
金剛峯寺・徳川家霊台 | |
名称 | 金剛峯寺・徳川家霊台/こんごうぶじ・とくがわけれいだい |
所在地 | 和歌山県伊都郡高野町高野山132 |
関連HP | 金剛峯寺公式ホームページ |
電車・バスで | 南海高野線高野山駅から南海りんかんバス奥の院前行きで11分、千手院橋下車 |
ドライブで | 京奈和自動車道紀北かつらぎICから約23km |
駐車場 | 金剛峯寺前駐車場(39台)・金剛峯寺第2駐車場(72台)/無料 |
問い合わせ | 金剛峯寺 TEL:0736-56-3728/FAX:0736-56-2100 |
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