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問田益田氏旧宅土塀

問田益田氏旧宅土塀

山口県萩市堀内、萩藩永代家老益田家の分家にあたる、問田益田家の土塀が、問田益田氏旧宅土塀。問田益田家は、問田(現・山口市)を治めていたのでその名がある名家。総延長231.7mと、長い土塀を巡らせた「重臣たちのお屋敷街」・萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区のなかでも、圧倒的な長さを誇っています。

萩城下に現存する土塀のなかで最長

関ヶ原の合戦後、西軍の総大将だった毛利輝元は、周防(すおう)・長門(ながと)の2ヶ国に封じられてしまいますが、幕府に相談の上、慶長13年(1608年)に萩・指月山に城を築きます。
その際に町割されたのが、現在の萩城下町。
萩城三の丸に位置し、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)、そして大身(たいしん=重臣)の武家屋敷が建ち並んでいたのが堀内で、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成しています。

問田益田氏は、永代家老・益田家の分家筋にあたる家柄で、20代当主・益田元祥(ますだもとなが)の子・益田景祥(ますだかげよし=小早川隆景に仕え、朝鮮出兵で活躍し)が分家。
萩城築城の際には、益田元祥、益田景祥親子が奔走し、関ヶ原合戦で疲弊し、国を縮小した際の経済を立て直しています。
萩藩では寄組(毛利一門8家に次ぐ家柄)で、4000石の重臣でした。

土塀の構造は下部の石垣(高さ1m、幅1.1m)、上部の漆喰壁(高さ1.45m、幅0.8m)に分かれ、その上に本瓦を載せるという堂々たるもの。

本瓦葺きの白い土塀は、保存状態も良く、往時の様子をしのばせてくれます。
近くの北総門通りには赤土の長い土塀なども見られ、「土塀ウォッチング」も可能。
撮影スポットとしても絶好なので、堀内重要伝統的建造物保存地区探訪の際にはぜひお立ち寄りを。

近くには萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)、旧毛利家別邸表門、旧福原家萩屋敷門もあり、「重臣たちのお屋敷街」の雰囲気を今に伝えています。

問田益田氏旧宅土塀
名称 問田益田氏旧宅土塀/といだますだしきゅうたくどべい
所在地 山口県萩市堀内
関連HP 萩市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで33分、天樹院入口・萩夏みかん工房前下車、徒歩5分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約46km
駐車場 指月第一駐車場(50台/無料)
問い合わせ 萩市観光課 TEL:0838-25-3139
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)

山口県萩市堀内、堀内体育館近くにある毛利家墓所のひとつが、萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)。豊臣政権の五大老のひとり、毛利輝元とその妻・南の大方(清光院)、殉死した長井次郎左衛門が眠っています。毛利輝元の菩提寺、天樹院は廃寺になっています。

旧福原家萩屋敷門

山口県萩市堀内、萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区に選定される萩城下町の一画、白壁土塀の問田益田氏旧宅土塀近くに建つのが、萩藩永代家老・福原家の萩上屋敷表門。萩城の三の丸に位置し、重臣の武家屋敷が建ち並ぶ堀内でも、現存する貴重な門となってい

萩城三の丸・北の総門

山口県萩市堀内、萩市伝統的建造物群保存地区に選定される萩城三の丸のうち、旧益田家物見矢倉近くに復元されているのが、北の総門。萩城三の丸(堀内)と城下町とを隔てる北の総門、中の総門、平安古の総門(ひやこのそうもん)3ヶ所あった門のひとつで、現

旧繁沢家長屋門

山口県萩市堀内、萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区に選定される萩城三の丸エリアで、菊ヶ浜寄りにあるのが、旧繁沢家長屋門(きゅうはんざわけながやもん)。繁沢家は、阿川毛利家(7391石余)の分家で、萩藩寄組(重臣の家柄/幕末に1000石余)に

 

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