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旧福原家萩屋敷門

旧福原家萩屋敷門

山口県萩市堀内、萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区に選定される萩城下町の一画、白壁土塀の問田益田氏旧宅土塀近くに建つのが、萩藩永代家老・福原家の萩上屋敷表門。萩城の三の丸に位置し、重臣の武家屋敷が建ち並ぶ堀内でも、現存する貴重な門となっています。外観のみ見学が可能。

長州藩の名門、福原家の屋敷門が現存

福原家は1万1314石余りの萩藩の重臣で、13代当主・福原広俊(ふくばらひろとし)は、関ヶ原合戦での敗戦処理、戦後対策を一手に引き受け、子孫は代々長州藩の家老を務めています。
寛永2年(1625年)に宇部を領地として与えられ、領政は、在地の家老が代行していました(現在、宇部の福原邸跡は、福原史跡公園として整備)。
また、幕末の長州藩13代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)は福原家の出身。
福原元僴(ふくばらもとたけ)は、福原越後として知られる重臣で、毛利敬親を補佐し、尊王攘夷運動を推進、禁門の変の責任をとり、岩国の龍護寺で自害しています。

本拠地は宇部にありましたが、当主は平時には萩城三の丸・堀内に滞在し、上屋敷のほか、萩城下に中屋敷と下屋敷も構えていました。
この表門は江戸時代中期の建築で、桁行8m、梁間2m、棟高4.5m、切妻造り、本瓦葺きの三問三戸の出入口をもつ腕木門。
両袖には潜戸が付いていますが、門番所がない形式の長屋門は、重臣の武家屋敷としては珍しいもの。

ちなみに、福原氏と毛利氏は、ともに鎌倉時代に興った武家で、大江広元の後裔。
福原氏は大江広元の次男・長井時広(ながいときひろ=出羽国置賜郡長井荘を所領)、毛利氏は、大江広元の四男・毛利季光(もうりすえみつ)を祖とし、長州藩を代表する家柄です。

周辺には、問田益田氏旧宅土塀、萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)、旧毛利家別邸表門もあり、重臣の暮らした武家屋敷街の雰囲気を今に伝えています。

旧福原家萩屋敷門
名称 旧福原家萩屋敷門/きゅうふくばらけはぎやしきもん
所在地 山口県萩市堀内
関連HP 萩市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで、天樹院入口・萩夏みかん工房前下車、徒歩3分
ドライブで 中国自動車道山口ICから約46km
駐車場 指月第一駐車場(50台/無料)
問い合わせ 萩市観光課 TEL:0838-25-3139
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

問田益田氏旧宅土塀

山口県萩市堀内、萩藩永代家老益田家の分家にあたる、問田益田家の土塀が、問田益田氏旧宅土塀。問田益田家は、問田(現・山口市)を治めていたのでその名がある名家。総延長231.7mと、長い土塀を巡らせた「重臣たちのお屋敷街」・萩市堀内地区伝統的建

萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)

山口県萩市堀内、堀内体育館近くにある毛利家墓所のひとつが、萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)。豊臣政権の五大老のひとり、毛利輝元とその妻・南の大方(清光院)、殉死した長井次郎左衛門が眠っています。毛利輝元の菩提寺、天樹院は廃寺になっています。

旧毛利家別邸表門

山口県萩市堀内にある明治時代建立の門が、旧毛利家別邸表門。もともとは最後の長州藩主となった毛利元徳(もうりもとのり)が明治時代に鎌倉・材木座に建てた別邸とともに大正10年に萩・東田町に移築したもので、昭和49年に現在地に再移築されています。

 

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