山形県最上郡最上町にある封人の家(ほうじんのいえ)は、江戸時代に役場や国境の警護の役目も果たしていた役人の家。有路家(ありじけ)は、仙台領との境に位置し、代々新庄領堺田村の庄屋を務めていた名家です。築350年ほどの建物(旧有路家住宅)は、国の重要文化財にも指定。元禄2年(1689年)の初夏に、雨のため芭蕉が2日間逗留しています。
『奥の細道』途中、松尾芭蕉も宿泊
元禄2年5月15日(1689年7月1日)、堺田越(さかいだごえ)で中山峠を越え陸前(宮城県)から出羽国(山形県)に入った芭蕉は、封人の家で雨宿りを兼ねて2泊。
「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」(『奥の細道』)。
新暦の7月1日であたりは新緑でさぞかし美しかったことと想像されます。
『奥の細道』に「封人の家」と記されたので、そう呼ばれています。
国道47号沿いにある旧有路家住宅は、山形県東北部に見られた広間型民家の代表的な建物。
有路家は、国境の警備も務める庄屋でしたが、街道時代には問屋や旅宿の機能も備えていました。
芭蕉は、「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」の句を詠んでいます。
馬も人も同じ屋根の下で寝る東北の庄屋なので、夜中に馬がじょろじょろとおしっこ、といった感じの一夜だったのです。
実際には芭蕉は馬屋から土間と囲炉裏(いろり)を挟んだ中座敷に寝たと推測できるので、待遇が悪いということではなく(「枕もと」と言うには少し離れています)、少し民俗学的な視点から、馬が家族同様だという点を強調して、こう表現したものだと地元では解釈しています。
ただ、混雑した日で、馬屋近くに寝た可能性もあり、この句の解釈を巡り、多くの説が出されているのです。
当時、小国地区は小国駒(おぐにごま)を産する出羽国でも随一の馬産地でした。
「小屋組は、釘(くぎ)を一切使わず、木と木を組み合わせて縄でくくるだけの昔ながらの工法です。梁(はり)にしている松の木は曲がったままのものです」(封人の家管理人)。
隣接の資料館には芭蕉や『奥の細道』、小国駒に関する資料が展示されています。
徒歩4分ほどの場所にある「堺田分水嶺広場」は、太平洋(江合川から旧北上川へ)と日本海(小国川から最上川へ)の中央分水嶺。
平坦地に分水嶺がある珍しい場所です。
標高が350mほどで中央分水嶺のため、冬期にヤマセが吹き抜け、厳しい寒さがあったので、馬が寒くないように、またいつでも馬の安全が確認できるようにと、餌を煮る馬専用の竈(かまど)を設け、馬と人が同じ空間で寝泊まりしていたのです。
封人の家(旧有路家住宅) | |
名称 | 封人の家(旧有路家住宅)/ほうじんのいえ(きゅうありじけじゅうたくほうじんのいえ) |
所在地 | 山形県最上郡最上町堺田59-3 |
関連HP | 最上町公式ホームページ |
電車・バスで | JR堺田駅から徒歩5分 |
ドライブで | 東北自動車道古川ICから約40km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 封人の家 TEL:0233-45-2397 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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