山梨県甲府市東光寺にある臨済宗妙心寺派の寺で、甲府五山に数えられるのが、東光寺(とうこうじ)。寛元4年(1246年)、南宋からの渡来僧で鎌倉に建長寺を建立した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の再興の名刹。蘭渓道隆ゆかりの見事な池泉鑑賞式庭園も残されています。
甲府五山のひとつで、蘭渓道隆再興の名刹
建長寺を開いた蘭渓道隆は、蒙古襲来(元寇)の際、天台宗と衝突、そして元からの密偵の疑いをかけられ、二度、甲斐に配流されています。
一度目の配流のとき建立したのが、この東光寺。
鎌倉時代末期、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき/在職:1316年〜1326年)の時代には鎌倉五山十刹に次ぐ寺格を与えられていました。
現存する東光寺の仏殿は、室町末期の築と推定され、国の重要文化財。
天正10年(1582年)の織田信長の兵火での焼失からも奇跡的に免れています。
仏殿の本尊として安置されている薬師如来坐像は、鎌倉時代のもの。
蘭渓道隆の作庭と伝わる東光寺庭園は、山梨県の名勝(昭和61年に東光寺庭園復元整備が行なわれています)。
境内は、鎌倉の禅宗寺院のような雰囲気です。
武田信玄の諏訪侵攻を受け、桑原城で降伏した諏訪頼重は、東光寺に幽閉された切腹となりますが、今も墓は東光寺境内にある。
その諏訪頼重の墓に寄り添うように並ぶのが禰禰の墓ともいわれています。
石碑には「諏訪頼重ハ天文11年7月武田氏ニ亡ボサレ甲府板垣信形邸ニ幽閉セラレ7月20日ニ自尽セリ時27才祢々夫人ハ武田信玄ノ妹ニテ翌12年正月19日16才ニテ歿ス 二人墓ナリ」と記載。
そしてこの寺にもうひとつある墓が、信玄の信玄の嫡男で、駿河・今川義元の娘を正室とした武田義信(たけだよしのぶ)の墓。
『甲陽軍鑑』によれば傅役(もりやく・教育係)の飯富虎昌(おぶとらまさ=『風林火山』では金田明夫が好演)と謀って信玄を殺す計画を立てたため東光寺に幽閉と記され、その死因は自害させられたとも、病死だったともいわれていて定かでありません。
親今川派の武田義信が失脚した後、信玄の駿河侵攻が始まっているので、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、駿河の今川家との微妙な関係を巡る内部対立だったとも推測できます。
武田信玄が京都五山や鎌倉五山に倣って定めた甲府五山(府中五山)は、東光寺(息子・武田義信の墓)のほか、長禅寺(大井夫人の墓)、能成寺(のうじょうじ/武田氏第15代当主・武田信守の墓)、円光院(正室・三条夫人の菩提寺)、法泉寺(ほうせんじ/息子・勝頼が中興開基で、勝頼の歯髪を埋葬)の5ヶ寺。
東光寺から能成寺へは西に徒歩10分、長禅寺へは能成寺からさらに徒歩15分(円光院と法泉寺は北に離れています)。
NHK大河ドラマ『風林火山』に描かれた東光寺
平成19年に放送されたNHK大河ドラマ『風林火山』のなかで悲劇のヒロインのように描かれているのが、由布姫(ゆぶひめ、大河ドラマ『風林火山』ではゆうひめ)。
諏訪御料人と呼ばれる諏訪の領主で、武田信玄の妹・禰禰(ねね=禰々御料人、武田信虎の三女)の夫・諏訪頼重(すわよりしげ=諏訪大社大祝)の娘で、諏訪家滅亡後、信玄は側室にしています。
諏訪頼重は、武田信虎の娘・禰禰を正室に迎え、同盟関係を築いていますが、武田信虎が駿河へ追放された後、信玄は伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び、諏訪頼重を攻め、ついに頼重は桑原城で降伏。
諏訪・桑原城から府中(甲府)へと移送された諏訪頼重は、東光寺に幽閉されています。
東光寺のある一帯は旧板垣村。
信玄の信任厚い板垣信方(いたがきのぶかた=武田四天王/大河ドラマでは千葉真一が好演)の領地だった地で、東光寺に幽閉したのも、板垣信方の領地ということも勘案されたのかもしれません。
大河ドラマ『風林火山』では、山本勘助(大河ドラマでは主人公・内野聖陽)がこの寺で諏訪頼重に切腹を迫っています(山本勘助の実在性を含め、あくまでも物語です)。
東光寺 | |
名称 | 東光寺/とうこうじ |
所在地 | 山梨県甲府市東光寺3-7-37 |
関連HP | 甲府市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR善光寺駅から徒歩25分、JR金手駅から徒歩20分 |
ドライブで | 中央自動車道甲府昭和ICから約8km、または一宮御坂ICから約11km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 東光寺 TEL:055-233-9070 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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