山梨県甲州市勝沼町、国道20号沿いにあるのが、柏尾古戦場跡(かしおこせんじょうあと)。慶応4年3月6日(1868年3月29日)、新選組と会津藩兵からなる甲陽鎮撫隊(121名)は、因幡藩、板垣退助らの土佐藩、高遠藩からなる官軍(1000名)と交戦。その古戦場の跡です。
甲州における唯一の戊辰戦争の戦場跡が勝沼に!
大善寺の東の入口、東神願鳥居の前に近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は大砲2門を据えて本陣に。
当時、鳥居の下を甲州街道がくぐっており、ここを通る官軍を迎え撃つという作戦だったのです。
対する新政府軍は、板垣退助も甲府城入城が決戦の行方を決めるとして、まずは甲府城を占領。
旧幕府軍は、雪で進軍が遅れたことに加え、下級武士などの混成部隊であったため「城持ち大名になれる」と有頂天となり、しかも幕府の軍資金で放蕩を繰り返し、大砲を置き去りにするなど士気も乱れていたのです。
甲府城下に近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が到着の際には、すでに1日前に板垣退助が城を専有していたため、援軍を求めて土方歳三を江戸へ向わせ、近藤自体は甲州街道と青梅街道の分岐点、勝沼へと進軍します。
近藤は大善寺(現在、本堂が国宝)を本陣にしようと考えますが、貴重な宝物を灰にすることを恐れた寺側が頑なに拒んで、山門前などの布陣したのです。
新政府軍は、甲州街道、岩崎など三方向から甲陽鎮撫隊を攻撃。
ほとんど訓練を受けず、大砲も正しく扱えないような甲陽鎮撫隊からは逃走者も続出し、一部は抜刀戦を仕掛けますが、軍事教練を積んだ新政府側の迅衝隊(じんしょうたい=土佐藩が主力)の近代的な銃撃の前には術もなく破れ、敗走。
甲陽鎮撫隊は江戸に敗走となります。
柏尾古戦場跡(深沢入口交差点脇)には近藤勇之像が立ち、甲州における唯一の戊辰戦争の跡であることを示しています。
甲州勝沼の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争などの別名もありますが、新選組の戦略のなさ、軍律の乱れ、士気の低さを露呈する戦いとなったのです(官軍では飲酒は厳禁で軍律を破ると斬首も)。
すぐ南側の柏尾変電所近くには国の登録有形文化財となった勝沼堰堤もあるので、時間が許せばあわせて見学を。
当時刷り物などで世に紹介され、『勝沼駅近藤勇驍勇之図』には大善寺の門前で、勇敢に戦う近藤勇が描かれてはいますが、実際には脱走兵を多く抱え、職業軍人の官軍に対してほとんど抵抗できずに敗れ去っているのです。
柏尾古戦場跡 | |
名称 | 柏尾古戦場跡/かしおこせんじょうあと |
所在地 | 山梨県甲州市勝沼町勝沼3449 |
関連HP | 甲州市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR勝沼ぶどう郷駅から市営バスで大善寺下車、徒歩5分 |
ドライブで | 中央自動車道勝沼ICから約2km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 甲州市観光協会 TEL:0553-32-2111 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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