サイトアイコン ニッポン旅マガジン

甲斐源氏旧跡

甲斐源氏旧跡

山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にある甲斐源氏発祥の地が、甲斐源氏旧跡。甲斐源氏の礎を築いたと伝えられる源義清(みなもとのよしきよ)は、新羅三郎義光の三男で、平安時代後期の天承元年(1131年)に甲斐国に入り、市河庄、青島庄の下司として、平塩に居を定めたと伝えられます。

市川大門にある甲斐源氏発祥の地

現在、源義清居館跡は熊野神社となっていますが、平安時代の熊野詣の隆盛を背景に、熊野三所権現を源義清が祀ったのが始まりと推測できる社です。

源義光は、東北で起こった後三年の役(1083年〜1089年)で、陸奥守となった兄・源義家を助け、その戦功で常陸介(ひたちのすけ=常陸国の国司)に任ぜられ、三男の源義清を那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に配し、勢力の拡大を図ったのです。
源義清は、那珂郡武田郷を領有していましたが、境界争いから常陸の在庁官人・大掾盛幹と敵対したことが原因で、甲斐国・市河荘に配流となり、巨摩郡平塩岡(現・市川三郷町市川大門)に居館を構えたのです。

源義清は、長承2年(1133年)、市河荘司となり、長男の源清光(みなもとのきよみつ=武田清光)とともに、逸見荘(北杜市)のへ進出し、八ヶ岳の山麓の牧(まき=埋もれていると牧場)で馬を飼育し(甲斐の黒駒として朝廷に献上されるように)、久安元年(1145年)、この地で没しています(法号「正覚寺殿陽山清公大居士」)。
長男の源清光は逸見荘(現・北杜市長坂町)に居館を構え、谷戸城(やとじょう/北杜市大泉町)を築いたと伝えられています。

常陸国那珂郡武田郷で「武田冠者」を名乗ったのが、武田信玄、武田勝頼に続く武田氏のルーツということに。

明治18年、当時の西八代郡長であった依田孝が、源義清居館跡と比定し、熊野神社東側に銅製の「甲斐源氏旧蹟碑」を建立しています。
ただし山梨県中巨摩郡昭和町の義清神社も居館跡(「甲斐源氏祖御旧跡」の碑が立っています)とされ、『昭和町誌』に、源義清が亡くなった年に屋敷跡に社殿を造営と記されていて、いずれの地もあくまで伝承ということに(昭和町の居館は源義清の隠居所という説があります)。

ひたちなか市武田には、武田氏のルーツを記念して鎌倉時代の地方豪族の館を参考にして武田氏館が建てられています。
全国に住む武田さんなら、武田氏館と甲斐源氏旧跡は必踏の地ということに。

甲斐源氏旧跡
開催日時 武田氏館、谷戸城跡と相互リンクをお願いします
名称 甲斐源氏旧跡/かいげんじきゅうせき
所在地 山梨県西八代郡市川三郷町市川大門5154
関連HP 市川三郷町公式ホームページ
電車・バスで JR市川本町駅から徒歩10分
ドライブで 中央自動車道甲府南ICから約10km
駐車場 熊野神社駐車場(4台/無料)、大門碑林公園駐車場(100台/無料)を利用し徒歩5分
問い合わせ 市川三郷町商工観光課 TEL:055-272-1101/FAX:055-272-2525
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

武田氏館

茨城県ひたちなか市武田は、あまり知られていませんが、実は甲斐武田氏発祥の地。平安時代、源義光(源義家の弟)の三男である源義清(みなもとのよしきよ)が、常陸国那珂郡武田郷を領有して武田氏を名乗ったのが、武田氏の始まり。武田氏のルーツを記念して

谷戸城

山梨県北杜市の大泉高原にある中世の山城の城跡が、谷戸城跡(やとじょうせき)。城は平安時代末期から鎌倉時代初期の要害城の典型で、15世紀以降も城として使われていたことが出土品から判明。武田信玄が造った軍用道路「信玄棒道」(しんげんぼうみち)の

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了