長野県松本市(旧南安曇郡安曇村)と岐阜県高山市(旧吉城郡上宝村)との境にある安房峠(あぼうとうげ)。槍穂高連峰から焼岳へと続く北アルプスの主稜線が、南の乗鞍岳へと通じる最低鞍部が標高標高1790mの安房峠です。現在は安房峠道路(安房トンネル)が山腹を貫いていますが、峠道はまだまだ現役です。
武田信玄も越えた安房峠
中世、信濃国(長野県)と飛騨国(岐阜県北部)を結ぶアルプス越えの街道は、焼岳(2455.5m)の北肩を越える中尾峠越え(中尾峠標高2100m)と南の安房峠越えがあり、ともに鎌倉街道の一部でした。
安房峠は焼岳火山群の一峰でもあるアカンダナ山(2109.4m)と安房山(2219.6m)の鞍部。
北の親不知子不知(おやしらずこしらず)の断崖から始まり、乗鞍岳(3025.7m)へと至る北アルプスは東西の交流を長年にわたって阻んできました。
戦国時代の天正12年(1584年)に佐々成政(さっさ なりまさ)が越えたと伝えられる針ノ木峠はなんと標高標高2536mもあるのです。
永禄7年(1564年)5月、山県昌景を大将とする武田勢は安房峠から高原郷(飛騨北部の高原川流域)へ侵入し、この地を手中にします。すでに飛騨半国は謙信が掌握しており、信玄は越中と信濃の要衝を確保する必要に迫られていたのです。
武田軍の飛騨侵攻は5回にも及んでいます。
1回めは永禄2年(1559年)6月下旬で、飯富昌景、馬場景政、甘利晴吉が、安房峠の南側の大峠の道なき道を切り開いて越えているのです(平湯温泉「神の湯」をこの時に発見したという伝承があります)。
大峠=安房山(標高2219.4m)とその南の2165mのピークとの中間鞍部。
永禄7年(1564年)3月、飯富昌景軍が安房峠を越えて飛騨に侵入。
4回目は、永禄7年(1564年)5月、飯富昌景が山県昌景と名を変えて、飛騨に侵入。この時は、第五次の川中島合戦が勃発し、軍は信濃へと引き上げています。
5回目は、永禄10年(1567年)5月で、ついに武田信玄自らが、信州から安房峠を越えて飛騨、そして越中に入っています。
この時、信玄は椎名康胤の松倉城(富山県魚津市)、神保氏春の増山城(富山県砺波市)、瑞泉寺(富山県南砺市井波)、聞名寺(富山県富山市八尾町)などを巡見しています。
ウエストンは「中部日本でもっとも優れた眺望」と絶賛!
江戸時代になると街道はさらに整備され、加賀藩初代前田利家も江戸からの帰途、松本を経てこの峠を越えて富山、金沢に帰ったのです。
能登半島・富山湾など豊かな魚場を支配した加賀藩は、上魚を金沢の中央問屋へ、並魚を地払いとし、余った魚を他国に売り出すという見事な魚問屋組織を築き上げます。
富山湾で獲れた鰤(ブリ)は、飛騨を通り、安房峠を越えて「飛騨鰤」として信濃へと運ばれ、正月には欠かせないものになったのです。
それでも江戸時代の飛騨と信濃を結ぶ主要道路は、野麦峠越えでした。
明治10年には平湯村の名主・小林右衛門三郎が安房峠の道を改修。
ウォルター・ウエストン(Walter Weston)は明治25年と明治26年の二度、平湯から安房峠を越えています(『日本アルプス・登山と探検』)。
ウエストンは平湯から橋場(島々の近くにあり、雑炊橋で島々宿と結ばれています)に到る25マイル(40km)の道は「中部日本でもっとも優れた眺望」であると絶賛しています。
そんな安房峠は、大正池の出現と上高地の観光化によって注目をあびるようになり、ようやく車道が通じたのは昭和13年です。
そして長野冬季オリンピックの前年の平成9年12月に中部縦貫自動車道・安房トンネルが峠の直下に開通。こうして冬期間は交通が断絶していた国道158号の安房峠越えが解消。
日本アルプスを冬季に通り抜けることができる唯一のルートが誕生したのです。
「安房峠を通る路線バスは全便車掌が乗務し、渋滞時は車掌がバスを降り対向車を誘導して進んでいました」なんて話は、すでに昔話になりつつあるのです。
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