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断夫山古墳

断夫山古墳

名古屋市の熱田神宮公園内にある断夫山古墳(だんぷさんこふん)は、墳丘長151m、前方部の幅116mで愛知県最大の前方後円墳。6世紀初頭の築造で、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の墓と推測されています。この墳墓を日本武尊の妃・宮簀媛命(みやすひめのみこと)の墓、近くの白鳥古墳が日本武尊の墓という伝承もあります。

東海地方最大の前方後円墳

周辺は熱田神宮公園として整備されています

熱田神宮に鎮座する三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)は日本武尊の死後に宮簀媛命が祀ったという熱田神宮の社伝、断夫山という名は宮簀媛命が再婚しなかったことに由来という説とあわせると、古代史の謎でロマンをかきたててくれます。

『日本書紀』によれば、この墳墓に埋葬された尾張連草香の娘・目子媛(めのこひめ)は継体天皇の妃となっているので、ヤマト王権と尾張の豪族との密接な関係も推測できます。

いずれにせよ尾張連(おわりのむらじ=天武天皇の誕生に尽力、その後裔は熱田神宮大宮司)は伊勢湾の水運を利用し、美濃の良質な鉄鉱石産地を抑えてヤマト王権に対して強い影響力を有していたことがわかります。

ちなみに石垣で組まれた周濠は、戦後の修造で創建時の周壕は埋め立てられています。
飛び石で周濠を渡り、墳丘の上に立つことは、文化財保護のため不可。

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

『尾張名所図会』に見る 鷲峯山(断夫山古墳)

江戸時代には、熱田神宮の神域として立ち入りが厳しく禁じられ、3月3日のみ墳丘への立ち入りが認められたため、『尾張名所図会』には、3月3日に墳丘に上り、熱田浜を眺める庶民の姿が描かれています。
『尾張名所図会』に描かれた名前は「三月三日 鷲峯山より汐干を望む図」、『尾陽極事記』にも「熱田の鷲峯山に遊観して潮干を遠望す」とあるので、当時、断夫山古墳が鷲峯山と呼ばれ、3月3日に宗教的な意味合いを有して、開放日となっていたことがわかります。

断夫山古墳
名称断夫山古墳/だんぷさんこふん
所在地愛知県名古屋市熱田区旗屋町1-10-45熱田神宮公園
電車・バスで名古屋市営地下鉄熱田神宮西駅から徒歩7分、JR熱田駅から徒歩10分
ドライブで名古屋高速4号東海線六番北ICから約2.5km
駐車場熱田神宮公園駐車場(50台/無料)
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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