愛知県名古屋市中区、現在の真宗大谷派名古屋別院(東別院)境内にあった中世の城跡が古渡城(ふるわたりじょう)。天文3年(1534年)、織田信長の父・織田信秀(おだのぶひで)が三河を睨んで築城した城で、織田信長は、天文15年(1546年)、古渡城で元服し、織田三郎信長と称するようになっています。
吉法師が元服し、織田信長と名乗った城
信長の父・織田信秀は、享禄5年(1532年)頃、今川氏豊(いまがわうじとよ=父は駿河今川家9代当主・今川氏親)の居城・那古野城(名古屋城の前身、現在の名古屋城二之丸庭園あたりにあった城)を攻略、自らは古渡城を築城し、幼少の吉法師(きっぽうし=織田信長)に那古野城を譲っています。
織田信長は、天文3年5月12日(1534年6月23日)、勝幡城(しょばたじょう=稲沢市にあった織田信秀居館)で生誕し、吉法師と名乗った時代を那古野城で過ごし、天文15年(1546年)、13歳のとき、古渡城で元服、織田三郎信長と名乗り、天文18年(1548年)、岐阜城主・斎藤道三の娘・濃姫と婚姻、天文21年(1552年)、父・織田信秀の死によって18歳で家督を継承、自ら上総介(かずさのすけ)を称し、尾張国内の統一を実現しています。
天文17年(1548年)、織田信秀の留守(美濃に侵攻し斎藤道三を攻めた加納口の戦い)を狙い、清洲守護代・織田信友(おだのぶとも)の家臣・坂井大膳(さかいだいぜん)が古渡城を攻めますが、城は落城していません(城下は戦火で焼失)。
しかし、直後に織田信秀は末森城(現・名古屋市千種区城山町)を築いて居城としたため、古渡城はわずか14年で廃城に。
元禄3年(1690年)、尾張藩2代藩主・徳川光友が、古渡城跡を尾州名古屋御坊としたため、城跡は真宗大谷派名古屋別院(東別院)の境内になっています。
遺構は残されていませんが、真宗大谷派名古屋別院(東別院)の東に隣接する下茶屋公園は、古渡城の堀跡を利用した公園で、池は堀底とも推測できます。
古渡城 | |
名称 | 古渡城/ふるわたりじょう |
所在地 | 愛知県名古屋市中区橘2-8-55 |
電車・バスで | 地下鉄名城線東別院駅から徒歩5分 |
ドライブで | 名古屋高速道路東別院ICから約700m |
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