オランダを連想させるような、周囲を堤防に囲まれた海抜0m以下の土地は、国内に意外に多く、集落を堤防で囲む「輪中地帯」で知られる木曽川、日光川、新川河口部を抱える愛知県は国内TOPの3万7000haも存在します。そのうち2万8600haが伊勢湾沿いで、残りは岡崎平野(5700ha)と豊橋平野(2700ha)にあります。
東京ドーム4000個分のゼロメートル地帯が
実は、木曽川、日光川、新川が伊勢湾に注ぎだす部分に広がる「海抜0m以下の土地」ですが、縄文海進時(温暖な気候を背景に海が内陸奥深くまで侵入)には完全に海中だった土地です。
弥生時代でも大部分は海の中で、現在の「海抜0m以下の土地」 と0m以上の土地の境界線が実は弥生時代の海岸線とほぼ同じです。
伊勢湾沿いの弥富市、飛島村、蟹江町などは当然「海抜0m以下」ですが、かなり内陸の愛西市、津島市、あま市、大治市にも「海抜0m以下の土地」 が広がっています(合計すると東京ドーム4000個分の広さに!)。
津島市でも市域のほぼ全域が海抜ゼロメートル地帯ということに。
対馬市内に寺野遺跡、埋田遺跡など弥生時代の遺跡が多いのも海岸線に近かったからだと推測でき、津島という地名も、津にある島と「港の島」を表しています。
飛鳥時代にはすでに津嶋という名があるので、当時から港町として機能していたことがわかります。
天明5年(1785年)、天王川は締め切られ、津島湊は港湾としての機能を失いますが、この津島湊の繁栄は、織田信長の財政をも支えた時代があったのです。
商都津島を支配した勝幡城(現・愛知県愛西市勝幡町)の城主だった織田家は、織田信定(おだのぶさだ=織田信長の祖父)、織田信秀(信長の父)と次第に勢力を拡大、織田信長は天下布武をとなえるまでになったのです。
徳川家康の命で干拓が始まった!
海の退行とともに、埋め立てが進んだ土地ですが、江戸時代初期には現在の弥富市、飛島村一帯は、ほぼ完全に海の中でした(家康は弥富の存在を知りません)。
蟹江町も半分は海中です。
一部、陸地もありましたが、尾張国(愛知県)と伊勢国(三重県)の境界も曖昧で、市江八郷(市江島)は伊勢国に属していました。
慶長12年(1607年)、土地勘のあった徳川家康は、御囲堤を築くことを命じて、干拓を進め、広大な新田を生み出しています。
水没と干拓を繰り返しながら、どんどんと伊勢湾側に干拓地が広がり、明治時代に干拓地に池を築いて金魚の養殖も始まります。
これが有名な「弥富の金魚」です。
もともと干拓地ですが、「海抜0m以下の土地」となったのは戦後。
実は昭和30年代中ごろからの地下水の汲み上げにより、地盤が沈下、ゼロメートル地帯が生み出されたのです。
地元愛知県の解説では「海抜マイナス3mほどの土地もある」とのこと。
大雨などの際には水没してしまうので、120基も配された排水機(ポンプ)で日光川、木曽川、新川、筏川、鍋田川などへ排水しています。
実は「海抜0m以下の土地」を流れる川は天井川で、川底は土地や建物よりも標高が高いという逆転現象も生まれています。
意外に多い「海抜0m以下の土地」 愛知県には3万7000haも存在! | |
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