『日本書紀』、『万葉集』にも記載される日本三古湯とは!?

奈良時代末(8世紀後半)に編纂された現存する最古の和歌集『万葉集』。その『万葉集』には4500首ほどの歌が収録されていますが、温泉地が登場するのが5湯しかありません。飛鳥時代の皇族にも愛された3湯が日本三古湯で、有馬温泉、白浜温泉、道後温泉の3湯です。

万葉時代から皇族に愛された3つの温泉地

有馬温泉「金泉」
万葉時代から歴史を有する有馬温泉「金泉」

『万葉集』に収録される温泉地の中で、目を引くのは、有馬温泉(兵庫県神戸市)、白浜温泉(和歌山県白浜町)、道後温泉(愛媛県松山市)の「日本三古湯」。

有馬温泉は『日本書紀』に飛鳥時代の631年(舒明天皇3年)、舒明天皇が「有間温湯」で夫婦で湯治したと記され、647年(大化3年)には孝徳天皇も訪れています。
歌として有馬温泉が具体的に登場することはありませんが、『万葉集』の左注(和歌の後に添えられた散文)に大伴坂上郎女の実母、石川命婦(いしかわのみょうぶ)が「餌薬(じやく)の事によりて有馬の湯に往(ゆ)き」と記されているので(巻3-461)、有馬温泉がすでに湯治場「有間温湯」(ありまのゆ)として有名だったことがわかります。

南紀・白浜温泉も、 657年(斉明3年)、女帝・斉明天皇(さいめいてんのう=皇極天皇が重祚)が弟である有間皇子のすすめで、牟婁の湯(むろのゆ=白浜温泉)に滞在しているので、すでに飛鳥時代に皇族に愛されていることがわかります。
海のない平城京に暮らす都人は、牟婁温湯(むろのゆ)、紀温湯(きのゆ)と呼んだ白浜温泉は憧れの保養地でもあったのです。

瀬戸内海航路の中継点に位置した松山・道後温泉は、百済が唐と新羅により滅亡した直後の661年(斉明天皇7年)、斉明天皇は難波津(大阪港)から九州に向かう際(朝鮮半島出兵のため)、潮待ちのために伊予の熟田津(にぎたつ)・石湯行宮(いわゆのかりみや)に2ヶ月ほど滞在しています。
このときに詠まれた有名な歌が「熟田津の歌」(熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな)。
万葉歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が足を伸ばした西端が、この道後温泉です。

『万葉集』には実は「いい湯だな」的な歌はありませんが、逆にいえば、すでに湯治場としての名声は名高く、それを声高に記すのを避けたのかもしれません。

日本三古湯が西日本に集中するのは、飛鳥時代〜奈良時代、都が大和国(奈良県)にあり、東国の情報、交通手段は乏しかったからだと推測できます。
近場でのんびりと湯治というのは、今も昔も変わりありません。

画像協力/南紀白浜観光協会(TOPの画像=白浜温泉・崎の湯)

道後温泉本館
道後温泉本館
『日本書紀』、『万葉集』にも記載される日本三古湯とは!?
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日本三古湯

日本三古湯とは!?

日本三古湯(にほんさんことう)は、白浜温泉(和歌山県白浜町)、有馬温泉(兵庫県神戸市)、そして道後温泉(愛媛県松山市)の三湯を数えるのが一般的。いずれの温泉地も『日本書紀』など、神代の時代にまで遡ることができる温泉で、共通するのは三湯とも効

 

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