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日本三大疎水とは!?

日本三大疎水

農業、飲料、発電などの用途で、利水のために築いた水路が疎水(そすい)。そのなかでもベスト3に選ばれるのが三大疎水。福島県の安積疏水(あさかそすい)、栃木県の那須疎水、そして琵琶湖の水を京都に引いた琵琶湖疏水の3ヶ所が三大疎水です。実は、3つの疎水には明治初年の殖産興業を背景にした国家プロジェクトで築かれたという共通点があります。

安積疎水(あさかそすい)〜明治政府最初の国営農業水利事業〜

安積疏水

2018年12月16日

三大疎水のなかで、最初に築かれたのは、猪苗代湖の水を郡山に通水した安積疏水です。
明治初年、激動する時代を背景に、武士の失業問題が大きな政治課題になっていました。
各地で湧き上がる不平士族の反乱。

明治4年、岩倉具視(いわくらともみ)を代表とする岩倉使節団は近代化を推進するため、欧米諸国を1年10ヶ月かけて視察。
国力の差を痛感した岩倉具視、大久保利通らは「富国強兵」をスローガンに、新産業を育成する「殖産興業」を図る近代化を推進します。

岩倉使節団には福島県令・安場保和(やすばやすかず)もメンバーに含まれ、福島に戻ると官民一体となった開拓が始まります。
明治6年には、開成社が結成され、ブドウなどの西洋果樹が導入され、西洋式農法の開拓で新村が誕生するなどの効果を発揮します。

明治9年、明治天皇の東北巡行の下見に訪れた大久保利通は、この官民一体となった事業の成功例に感激し、殖産協業と、困窮した武士を救う士族授産を兼ねたモデル事業として、安積疏水の掘削を提案します。

事業開始目前に大久保利通は暗殺されてしまいますが、明治11年11月、久留米藩など全国9藩の旧藩士2000人を動員し、猪苗代湖の水を安積原野に引く工事が始まったのです。

明治政府最初の国営農業水利事業ですが、安宅疎水の水は、発電にも活用され、郡山の紡績業発展にもつながっているのです。

猪苗代湖

2020年4月24日

十六橋水門

2018年12月16日

那須疎水〜殖産興業を目的に那須野ヶ原を潤す〜

那須疎水(那須疏水公園)

2018年12月15日

那須連山の山麓、火山灰土の高原地帯、那須野ヶ原は、東京から近いということもあり、明治政府の殖産興業政策を背景に、国有地の払い下げを受けて、大山巌(公爵/薩摩藩士)、西郷従道(侯爵/薩摩藩士)、松方正義(公爵/薩摩藩士)、山縣有朋(公爵/長州藩士)、品川弥二郎(子爵/長州藩士)、山田顕義(伯爵/長州藩士)、三島通庸(子爵/薩摩藩士、栃木県令)、佐野常民(伯爵/佐賀藩士、農商務大臣)、青木周造(子爵/長州藩士)、鍋島直大(子爵/佐賀藩藩主)、毛利元敏(子爵/長府藩藩主)、戸田氏共(伯爵/大垣藩藩主)ら多くの華族が西欧式の大規模農場を開きました。

那須野ヶ原では、慶長年間(1595年~1615年)に、蛇尾川(せびがわ)を水源とする蟇沼用水(ひきぬまようすい)、宝暦13年(1763年)に木ノ俣川を水源とする木ノ俣用水が掘削されていますが、原野を潤すにはほど遠いもので、農業開発には用水の掘削が絶対的に必要でした。

初代栃木県令・鍋島幹は、用水の確保はもちろんですが、さらなる那須野ヶ原発展に向けた壮大な計画「大運河構想」を打ち出します。
那珂川と鬼怒川間に運河を掘削し、那須と会津、那須と東京を舟運で結ぶというもの。
現実性に欠ける計画のため、当然、この計画は構想倒れとなりますが、明治15年には福島県令に就任し、明治16年には栃木県令を兼任した県令・三島通庸(みしまみちつね)は、那須疎水掘削に乗り出し、明治18年、国家プロジェクトとして工事が始まります。
工事を担当したのも、安積疏水の技術者・南一郎平(みなみいちろべえ)と南が率いる大分県の石工集団で、5ヶ月という驚異的なスピードで完成しています。

山縣有朋記念館

2018年12月6日

大山記念館洋館

2018年12月6日

旧青木家那須別邸(とちぎ明治の森記念館)

2018年12月6日

琵琶湖疏水〜都が東京に移った京都の復興プロジェクト〜

蹴上インクライン

2018年2月26日

琵琶湖疏水第1トンネル東口

2017年8月15日

幕末の禁門の変で市中が荒廃し、さらに明治維新と東京奠都に伴い人口減少、人材流出が進んだ京都。
西陣織など産業の衰退も危惧されたため、第3代京都府知事・北垣国道は、琵琶湖の水を京都市中に引水する琵琶湖疏水を計画。
主任技術者には、工部大学校を卒業したばかり、弱冠21歳の技術者・田邉朔郎(たなべさくろう=日本の近代土木工学の礎を築いた技術者)を任じています。

第1疏水(大津〜鴨川合流点間)は明治18年着工、明治23年完成。
工事途中の明治21年、田邉朔郎は訪米して世界初の水力発電を実現したアスペン鉱山を視察。
この視察を生かして、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所(けあげはつでんしょ)を創設していますが、このことが京都市電への通電にもつながり、京都の近代化に大いに貢献することになりました。

その結果、第2疏水は、第1疏水で賄いきれない電力需要に対応する目的で、さらには近代上水道のための水源として、明治41年に着工、明治45年に完成。

ユニークなのは舟運で、完成当初は、大津〜蹴上に旅客輸送も行なわれています。
落差の大きい場所は船が運航できないので、台車に船を載せて上下させるインクラインを建設。
蹴上発電所の電力を利用して、蹴上インクラインを稼働させたのです。
さらに明治28年には伏見インクライン(墨染インクライン)も完成しています。

琵琶湖疏水に点在する扁額に注目!

2018年2月26日

第二期蹴上発電所(旧発電所)

2018年2月26日

蹴上ねじりまんぽ

2018年2月26日

南禅寺・琵琶湖疏水

2018年2月25日

南禅寺水路閣

2018年2月25日

哲学の道

2017年12月30日

日本三大農業用水とは!?

2021年2月20日

 

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