とある調査で、横浜市民に「横浜を代表する歌」、つまりはご当地ソングを尋ねたところ、2位の『赤い靴』を抑えて圧倒的多数の支持を得たのが、いしだあゆみの名曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』(作詞・橋本淳、作曲・筒美京平)。そんな名曲ですが、実はある公園からの景色がモチーフになっています。
横浜から眺めた川崎方面の工場夜景が、ブルーライト

昭和43年12月25日発売の懐メロ、『ブルー・ライト・ヨコハマ』。
累計150万枚を超える売上を記録するミリオンセラーで、この曲のヒットで、いしだあゆみは昭和44年の『第20回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしています。
まさに、いしだあゆみの代表曲ですが、実はそのモチーフとなった光景がどこなのかはあまり知られていません。
「みなとみらい21」が誕生したのは平成元年の『横浜博覧会』以降なので、「街の灯り」というのは、「みなとみらい21」ではないことは明らかです。
カラオケなどで『ブルー・ライト・ヨコハマ』のバックに「みなとみらい21」や、汽車道、赤レンガ倉庫などが流れるのは、あくまでも現代のイメージということに。
作詞者の橋本淳は、東京出身で、青山学院大学在学中から作詞を始め、当時フジテレビの社員だった後の作曲家・すぎやまこういちに歌詞を依頼されたことが、作詞家としての第一歩でした(大学在学中に作曲家のすぎやまこういちに弟子入り)。
後にコンビを組んだ作曲家・筒美京平は青山学院高等部時代の後輩で、大学時代は同じジャズバンドという関係です。
昭和40年代の横浜は、本牧(ほんもく)に「本牧ベース」と通称されるフェンスに囲まれた米軍横浜海浜住宅地区(YOKOHAMA BEACH DH-AREA)があり、船乗りだったイタリア系アメリカ人ハリー・コーベット氏が開いた名物店「リキシャルーム」、アメリカンポップが流れる「イタリアン・ガーデン」などが立ち並び、異国情緒あふれる場所でした。
東京からも多くの音楽関係者、タレントが集まる場所で、横浜の町にはアメリカ兵や外洋航路の船乗りの姿を数多く見かけました。
ちょっぴり「危険な香り」も漂う町で、赤レンガ倉庫も商業施設化される以前で、テレビのロケ地になっていました。
そんな時代の横浜は、今ほどのきらびやかな夜景もなく、歌詞の中で、ブルーライトと称されるのは、川崎の工場夜景だったのです。
今ではパソコンなどからの高エネルギー可視光線のイメージが強いブルーライトですが、昭和40年代にはパソコンもなく、ブルーライトという言葉もありませんでした。
京浜工業地帯・川崎の工場群が放つ青っぽい光こそが、ブルーライトというわけです。
ブルー・コメッツと一緒に初めて渡欧した時、夜の港町・カンヌで眺めた夜景を、港の見える丘公園からの川崎方面の工場夜景に重ねて誕生したのが、『ブルー・ライト・ヨコハマ』です。
カトリーヌ・ドヌーヴに憧れたいしだあゆみ、そしてカンヌの港を意識した歌詞、さらには斬新なサウンドが、名曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』を生み出したのです。
そこにはようやく海外旅行が始まった時代、西洋への憧れもあったのかもしれません。
港の見える丘公園からの夜景は、横浜ベイブリッジを眼前にしてきらびやかなものですが、ベイブリッジも平成元年9月27日開通で、みなとみらい21とともに、平成以降の夜景。
昭和40年代の港の見える丘公園の夜景は、少し寂しげで、物悲しさ、そして哀愁があふれていました。
そうしたメランコリーな雰囲気を込めたのが、『ブルー・ライト・ヨコハマ』で、実は現在のきらびやかな横浜とは少し違った光景を歌っているのです。
ちなみに、横浜関内・伊勢佐木モールには同じ昭和43年、青江三奈のヒット曲『伊勢佐木町ブルース』の歌碑があり、「赤い靴はいてた女の子像」も山下公園にあり、周遊バス「あかいくつ」も運転されていますが、横浜を代表するご当地ソング『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌碑はなぜか立てられていません。
あの名曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、どこからの景色!? | |
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