本願寺(西本願寺)
浄土真宗本願寺派の大本山が本願寺(西本願寺)。1272(文永9)年、親鸞の娘・覚信尼(かくしんに)が東山大谷に創建した大谷廟堂が起源。3世・覚如(かくにょ)の時代に大谷廟堂を寺院化して本願寺と称しました。戦国時代には寺地…
浄土真宗本願寺派の大本山が本願寺(西本願寺)。1272(文永9)年、親鸞の娘・覚信尼(かくしんに)が東山大谷に創建した大谷廟堂が起源。3世・覚如(かくにょ)の時代に大谷廟堂を寺院化して本願寺と称しました。戦国時代には寺地…
上賀茂神社(賀茂別雷神社)、八坂神社や伏見稲荷大社に並ぶ京都最古の神社で、上賀茂神社とともに山城国一之宮。平安時代以前からの原始林がそのまま残る「糺の森」(ただすのもり)に鎮座しています。正式名は賀茂御祖神社 (かもみお…
上賀茂神社は、正式名を賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)といい、世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産。平安遷都以前に、京で大きな勢力を持っていた賀茂氏の祖先を祀る神社で、遷都後は賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに王…
浜松市街の犀ヶ崖公園(さいががけこうえん)の北、国道257号(姫街道)沿いの地に立つ石碑が夏目次郎左衛門吉信(夏目吉信)の碑。犀ヶ崖古戦場の一角に位置するこの地は、夏目次郎左衛門吉信が「我こそは家康なり」と影武者に徹して…
上洛を狙う武田信玄に対して、織田信長と同盟を結び、遠州へと進出した徳川家康が激突した三方ヶ原の戦い。この戦で徳川家康は大敗を喫して、命からがら浜松城へと逃げ帰りますが、撤退する徳川軍の中で、最後尾となる殿(しんがり)を買…
明治19年、引間城跡に旧幕臣・井上延陵(井上八郎)が創建したのが元城町東照宮(浜松東照宮)。徳川家康立身出世の地に家康を祀る東照宮がないのはどうしたことかと考えた井上延陵は、引間城跡に東照宮を建立。境内には徳川家康は31…
三方ヶ原の合戦で大敗した徳川軍が、浜松城に逃げ帰ったその夜、一矢報いようと武田軍に夜襲をかけたのが犀ヶ崖の戦い。犀ヶ崖資料館はもともと三方ヶ原合戦での徳川軍2000人、武田軍200人という戦死者を祀った宗円堂が前身。三方…
浜松城の北1kmの地にある渓谷城の地形が犀ヶ崖(さいががけ)。三方原台地が裂けて陥没してできた全長2km、深さ9m、幅50mの断崖の谷です。三方原の戦いで大敗北を喫し、忠臣が身代わりとなって辛くも浜松城に逃げ帰った家康が…
三方ヶ原(みかたがはら)は、浜松にある台地。上洛を目ざす武田信玄軍2万7000と阻止しようとする徳川家康軍1万1000(うち信長軍3000)が浜松にある三方ヶ原台地で激突したのが1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦い。徳川…
京都の東山にある豊国神社(とよくにじんじゃ)。「ほうこく」とも「とよくに」とも呼ばれ、祭神は豊臣秀吉。京は秀吉が大名として統治した場所。秀吉は死後、遺言により東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、方広寺の鎮守社である豊國社に祀られまし…
綾部市で昭和63年に発見された私市円山古墳(きさいちまるやまこふん)は、5世紀中頃築造の全長81m、高さ10mの円墳。1000基を超える古墳群が形成された由良川中流域では最大規模を誇る古墳です。3段構成の墳丘からは、武具…
赤岩は、群馬県中之条町の山間にある養蚕集落。明治以前から養蚕が行なわれ、明治初期には近代養蚕技術の移入とともに前橋に繭が出荷され、その後は養蚕集落に変化しました。現在でも頑丈な養蚕農家の建物が現存し、一帯63haは、群馬…
伊勢崎藩医だった今村家が、明治45年に建てた現存する県内最古の擬洋風の医院建築がいせさき明治館(黒羽根内科医院旧館)。伊勢崎保健所、黒羽根内科医院などに使われましたが、黒羽根内科医院の新館完成で伊勢崎市へ寄贈され、現在地…
掩体壕(えんたいごう)とはコンクリート製かまぼこ型シェルターのこと。高知龍馬空港のすぐ西側、大湊小学校、大湊保育園一帯は、かつての高知海軍航空隊の基地だった場所。そこに7基の掩体壕が現存しており、前浜掩体群と呼ばれていま…
南国市の岡豊山(標高97m)山麓にある県立の博物館が高知県立歴史民俗資料館。岡豊山には長宗我部氏が築き、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の土佐統一の拠点となった岡豊城跡があり、博物館の常設展示も長宗我部展示室となって…
律令制時代の国司が政務を執る国庁が置かれたのが国府です。土佐国府は、南国市立国府小学校の南東200mほどの所にあるのが古代の土佐国の国衙(こくが=国司が地方政治を遂行した役所)の跡と推測されています。国司の館跡の遺構は発…
南国市岡豊町八幡の通称・岡豊山(標高97m)に位置する山城が岡豊城跡(おこうじょうせき)で、国の史跡。戦国武将・長宗我部氏(ちょうそかべし)の居城だった地。蛇紋岩(じゃもんがん)で成り立つ山は、東から南斜面にかけて急傾斜…
南国市比江土居屋敷にある古代寺院の塔跡が比江廃寺塔跡。塔の心礎だけしか現存しておらず、寺の名前も定かでないため「比江廃寺塔跡」という通称で呼ばれています。白鳳時代に古瓦も出土し、伽藍配置も法隆寺式であることから高知県では…