旧篠原家住宅
栃木県宇都宮市の市街地にある歴史的建造物。江戸時代末期から醤油醸造業を営み、明治時代には肥料業で財を成した豪商の篠原家。奥州街道の宇都宮城入口にあたる現在の場所で、商売を行なっていました。戦災で、残念ながら醤油蔵などは、…
栃木県宇都宮市の市街地にある歴史的建造物。江戸時代末期から醤油醸造業を営み、明治時代には肥料業で財を成した豪商の篠原家。奥州街道の宇都宮城入口にあたる現在の場所で、商売を行なっていました。戦災で、残念ながら醤油蔵などは、…
栃木県の県都、宇都宮(うつのみや)が栄えるようになったのは二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の門前町であったため。およそ1600年前、宇都宮の始祖・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀るために創建されたと伝えられてい…
栃木県宇都宮市にある松が峰教会は、明治21年にパリ外国宣教会のカジャック神父によって川向町に建てられた宇都宮天主公教会が前身。宇都宮特産で全国的に有名な大谷石で造られた教会は「大谷石百選」、国の登録有形文化財に指定される…
旧帝国ホテルやカトリック松が峰教会などに使われた大谷石の採石場で知られる石の郷、栃木県宇都宮市大谷町にあり、弘仁2年(811年)に、空海(弘法大師)によって開かれたと伝わる古刹が大谷寺(大谷観音)。本堂は大谷石の奇岩にす…
岡山県高梁市にある、銅山経営とベンガラ(紅殻)で財をなした豪農商・西江家の豪邸(備中天領大庄屋)が西江邸。江戸期には代官御用所を兼ねていた西江邸は、現在でも18代目となる西江家の個人邸宅ですが、その一部が一般公開されてい…
岡山県高梁市成羽町の北部に位置する吹屋(ふきや)は、江戸から大正末期まで、銅と赤色の顔料として知られるベンガラ(紅殻)で繁栄した町。中野地区にある広兼家も銅山とベンガラの原料・緑礬(ローハ=鉄鉱石を焼いて生成)の製造で富…
旧秋田商会ビルは、大正4年に建てられた海運会社・秋田商会の事務所兼住居だったもの。秋田商会は日清戦争以後に興った海外進出機運にのって下関に創設された海運会社で、海外貿易を主な業務にしていました。屋根の塔屋が印象的な和洋折…
鎌倉七口の一つに数えられるのが名越切通(なごえきりどおし)で、幕府のあった鎌倉と三浦半島側(逗子市小坪)を結ぶ街道の切通し。鎌倉時代編纂の歴史書『吾妻鏡』にも名越坂という名で登場する、鎌倉に入る歴史ある道です。現在は神奈…
滋賀県米原市、伊吹山のを池面に写し込む鏡池として有名で、「逆さ伊吹」が美しい米原市の人造湖が三島池。マガモの自然繁殖の南限で「三島池のカモ及びその生息地」として滋賀県の天然記念物に指定されています。周囲780mの楕円形の…
大正11年に、大同電力(現・関西電力)によって、当時の読書村(現・長野県南木曽町)の読書発電所(よみかきはつでんしょ)の建設資材の運搬路として木曽川に架けられた吊り橋が桃介橋(ももすけばし)。全長は247m、幅2.7m。…
羽黒山山麓にある随神門は、出羽三山神社神域の表玄関となる門。随神門をくぐれば、そこからが出羽三山の神域で、神域は月山を越え湯殿山まで広がっています。随神門は、神仏習合時代の元禄15年(1720年)、羽黒権現の仁王門として…
海蔵寺から源氏山公園へつながる化粧坂(けわいざか)の切り通し。武蔵国府(現在の府中市・国分寺市)へと通じる古道の鎌倉側の入口で「鎌倉七切通し」(鎌倉七口)のひとつになっています。昼なおうっそうとした暗い道で、昔ながらの土…
大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、大同3年(808年)、空海(弘法大師)が再興したと伝えられる河内長野市にある古刹が観心寺(かんしんじ)。後醍醐天皇から庇護を受け、建武新政直後の建武元年(133…
古くから神話に登場、古代にはヤマト王権や朝廷の東国支配の拠点にもなった古社が、千葉県香取市に鎮座する香取神宮。社伝によれば創建は神武天皇18年(紀元前643年)という東国屈指の歴史を誇ります。下総国一之宮で、全国に約40…
現在の測定値と比べても驚異的な正確さを誇る、わが国初の全図『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかいよちぜんず)。製作者の伊能忠敬(いのうただたか)は、17歳のとき佐原の酒造家・伊能家の婿養子に入り、50歳で隠居し江戸へ…
日露戦争の際に、連合艦隊司令長官の東郷平八郎が乗る連合艦隊の旗艦として、黄海海戦、日本海海戦で活躍したのが戦艦「三笠」。明治35年にイギリス(ヴィッカース社)で建造され、奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された敷…
社伝(『相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起』)によれば、平安時代後期の長治元年(1104年)の創建と伝わる鎌倉の古社、荏柄天神社。学問の神様、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神にし、治承4年(1180年)、鎌倉大蔵に鎌倉幕府を…
赤岩は、群馬県中之条町の山間にある養蚕集落。明治以前から養蚕が行なわれ、明治初期には近代養蚕技術の移入とともに前橋に繭が出荷され、その後は養蚕集落に変化しました。現在でも頑丈な養蚕農家の建物が現存し、一帯63haは、群馬…