千葉県野田市関宿町、天守を模した3層4階建ての千葉県立関宿城博物館の南西500mほどの江戸川河川敷一帯が、関宿城(せきやどじょう)。関宿城の城跡は河川改修のため、3分の2が江戸川土手の下に隠され、関宿城本丸跡に関宿城址の石碑が立っています。江戸時代の関宿藩の藩庁はこの一帯にありました。
利根川の舟運を掌握する重要拠点に建つ城
関東の制圧を目指した北条氏康(ほうじょううじやす)、そして長尾景虎(後の上杉謙信)も重視した関宿(「抑彼地入御手候事者、一国を被為取候ニも不可替候」喜連川足利家に伝来の喜連川文書)。
それは、関宿を掌握することが、関東の水運を抑えることに繋がるから。
上杉謙信も、まずはこの関宿城主・簗田晴助(やなだはるすけ)と同盟を結び、関東進出の拠点にしているのです。
簗田晴助の守る関宿城を北条軍は北条氏康、北条氏政(ほうじょううじまさ=北条氏康の次男)、北条氏照(ほうじょううじてる=北条氏康の三男)が、3度に渡り攻撃し(関宿合戦)、天正2年(1574年)、ついに手中に収め、利根川水域を支配しています。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びると、松平康元(まつだいらやすもと=徳川家康の異父弟、関ヶ原の戦いでは、家康の代理として江戸城の留守居役)が入城。
江戸時代には小笠原家、牧野家、板倉家、久世家など譜代大名が藩主となっています。
寛文11年(1671年)には当初の天守が破損したため、時の藩主・小笠原政信(おがさわらまさのぶ)は、江戸城富士見櫓を模した御三階櫓(おさんかいやぐら)が建設しています。
往時の建築物は明治維新で破却
明治維新で城郭は破却され、往時を偲ぶものは本丸周辺にはほとんど何もありません。
藩祖・松平康元の墓は、宗英寺(野田市関宿台町57)境内に、流山街道沿いの實相寺(野田市台町2140)には久世広周(老中)が蟄居生活を送った本丸御殿の一部が移築されています。
関宿藩は、利根川や江戸川の舟運を利用するため、城を利根川と江戸川を結ぶ逆川に面した場所に築いています。
徳川幕府は、川越城や佐倉城などとともに江戸城防衛の重要拠点として、老中などの要職に就いた久世氏などを藩主にしているのです。
城を囲むように流れる河川を天然の外濠として利用したのですが、逆に洪水などに悩まされることに。
城内への水の流入を防ぐ土塁を周囲に巡らせていましたが、寛保2年(1742年)の「寛保二年江戸洪水」(天明の洪水、弘化の洪水と並ぶ江戸三大洪水のひとつ)では城郭が大破しています。
幕末には、本丸、二ノ丸、三ノ丸、発端曲輪(はったんくるわ)、天神曲輪(てんじんくるわ)があり、本丸の北西隅に御三階櫓が建っていました。
二ノ丸や三ノ丸、各曲輪には上級武士の屋敷が並び、外郭には家臣団屋敷や関宿関所の役人の屋敷が配されて、城下町を形成。
御三階櫓を模して建てられた千葉県立関宿城博物館では、関宿藩や関宿に関する展示が行なわれているので、あわせて見学を。
関宿城 | |
名称 | 関宿城/せきやどじょう |
所在地 | 千葉県野田市関宿町1475 |
関連HP | 千葉県立関宿城博物館公式ホームページ |
電車・バスで | 東武川間駅から朝日バス境町行きで32分、関宿城博物館下車 |
ドライブで | 東北自動車道加須ICから約21.6km |
駐車場 | 100台/無料 |
問い合わせ | 千葉県立関宿城博物館 TEL:04-7196-1400/FAX:04-7196-3737 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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