その真相が今も謎に包まれ、戦国時代最大のミステリーともいわれる本能寺の変。少ない手勢で京に滞在中の織田信長が、家臣の明智光秀に本能寺で討たれる際に、発した言葉が、「是非に及ばず」だと伝えられています。用意周到な明智光秀の謀反ならばどうしようもないという、諦めの言葉ともいわれています。
信長最期の言葉「是非に及ばず」は『信長公記』の記述
令和5年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の第28話は本能寺の変でしたが、明智光秀の名台詞「敵は本能寺にあり」、そして織田信長の「是非に及ばず」、そして明智軍に囲まれた中で舞ったとされる幸若舞の演目『敦盛』(「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」)も、出てきません。
実はいずれも史実なのかは定かでなく、定宿だとされる本能寺にも実は2回しか宿泊していないのです。
織田信長の京での宿泊先は、49回の上洛中、本能寺はたったの2回で、天正10年6月1日(1582年6月20日)(本能寺の変前夜)と、その1年前の天正9年2月20日。
回数的に定宿だったのは、美濃国の戦国大名・斎藤道三との関係が深かった妙覚寺(京都市上京区/20回)、織田信長が設置した城館の二条新御所(14回)、足利将軍家ゆかりの相国寺(6回)がいわば定宿。
本能寺の変の際は、嫡男・織田信忠が妙覚寺に入っていたので、本能寺を選んだだけで、本来なら「敵は妙覚寺に」だった可能性も大なのです。
ここで注意したい点は、本能寺はたまたま宿泊した寺だった可能性が大な点。
つまり、これまでに歴史作家が考えるような強固な城郭建築だったわけではなく、東西150m、南北300mほどの京ではごくありふれた寺にすぎなかったことです。
その一角にあった御殿も、近年の研究で最大で周囲40mという小さなお堂レベルだったと推測されています。
この平凡な寺の小さな御殿で一夜を過ごす織田信長に対し、1万の兵力で攻めてきたのが明智光秀なので、思わず「是非に及ばず」と発したような気もしますが、これはあくまで『信長公記』(しんちょうこうき)での記述。
信長旧臣の太田牛一(おおたぎゅういち )が江戸時代になってから著したもの。
京の寺社と信長との連絡役でもあった太田牛一には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)から何度も筆が贈られているので、筆まめだった可能性もあり、『信長公記』も比較的に正確だとされていますが(奥書に「「直にあることを除かず無き事を添えず」と創作はないことが明記されています)、信長最後の言葉とされる「是非に及ばず」はあくまでも伝聞ということになります。
元亀元年(1570年)の朝倉義景攻めの際に、挟み撃ちに合うという窮地に陥った際に「是非に及ばず」と発しているので、本能寺でもこうだったろうという推測という可能性もあるのです(本能寺の変の際には太田牛一は加賀に滞在)。
『信長公記』には比叡山延暦寺の焼き打ちに際しても、「僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり」と信長の残忍性を正確に記しているので、当日、本能寺にいながら難を逃れた侍女たちに聞き取り調査をした描写は信頼に足ると考えることができます。
死を前にして優雅に舞を舞ったのか、そして「是非に及ばず」と発したのかは、この『信長公記』をどう捉えるかに関わってきます。
『信長公記』の描写が太田牛一の創作と捉えるなら、それはあくまで太田牛一の想像ということに。
あるいは、太田牛一が後日に現地調査をして侍女から正確な聞き取りを行なったのなら、かなり信頼度がある最期の姿ということに。
ちなみに本能寺は、現在の本能寺の建つ場所(織田信長供養塔)は、本能寺の変後の天正20年(1592年)に移転した地。
本能寺の変の際は、堀川四条の近く堀川高校本能学舎・本能特別養護老人ホームあたりで、南北に走る油小路沿いに本能寺跡の石碑が立っています。
戦国時代最大のミステリーともいわれる本能寺の変ですが、その現場は、石碑が立つのみで、「是非に及ばず」が最後の言葉なのかも謎に包まれています。
その時歴史は動いた! 格言・名言の誕生地(6)是非に及ばず|織田信長 | |
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