日本長距離フェリー協会によれば、現在、北海道から九州まで15航路があるとのこと。個室完備の豪華フェリーも増えて、快適な船旅が約束されています。日本最初の長距離フェリーは、阪九フェリーの小倉港〜神戸港で、昭和43年8月10日に就航した「フェリー阪九」です。
阪九フェリーは、国内長距離フェリーのパイオニア

昭和43年11月2日には「第六阪九」も加わって、日本にも大型長距離フェリーの時代が幕を開けました。
阪九フェリーは、文字通り阪神と九州を結ぶフェリー会社で、福岡県北九州市門司区新門司北に本社を置き、日本初の長距離カーフェリー事業者として誕生。
日本海に航路を有する新日本海フェリー、韓国・釜山と下関を結ぶ国際航路の関釜フェリーとともにSHKライングループを形成、その中核となる会社です。
入谷豊州(いりたにとよくに)は、昭和23年、関光海運を創業、北九州の石炭などの運送を行なっていましたが、その後、阪神地区との定期輸送にも参入。
高度経済成長を背景に、昭和30年代には、阪神〜北九州間でのカーフェリー構想を立ち上げ、昭和41年に阪九フェリーを創業、昭和42年には神戸〜小倉間の一般旅客定期航路の事業免許を取得し、昭和43年8月10日、神戸(魚崎)〜小倉(日明)航路に第一船「フェリー阪九」を就航させたのです。
「フェリー阪九」は、総トン数5201.8tの大型フェリーで、全長127.7m、航海速力16.8ノット。
旅客定員1195名、トラック80台、乗用車60台が積載でき、現代のフェリーと比較しても見劣りしない内容です。
1等は和室と洋室、特二等室は和室と個室も完備
浴室、一般食堂のほか、バーも備えていました。
これが日本初となる長距離フェリーで、11月に第2船「第六阪九」(総トン数5011.1t)が就航し、毎日の運航となったのです。
瀬戸内海航路は、戦前から大阪商船(後の関西汽船、現・商船三井)が阪神〜別府航路などに旅客船(貨客船)を運航し、その豪華さから「瀬戸内海の女王」と呼ばれた船もありましたが、車を積むことはできませんでした。
高度成長とともに長距離フェリー輸送を確立

昭和44年6月には、関光海運は、新日本海フェリーと関釜フェリーを相次いで設立し、SHKラインの基礎が誕生。
つまり、Shin-nihonkai・Hankyu・Kanpuで、SHKラインだったのです。
運航は順調で、昭和45年には第3船「フェリーせと」(総トン数6523.2t)、第4船「フェリーはりま」(総トン数6521.1t)が就航し、1日2便態勢に、さらに昭和47年に第5船「フェリーながと」(総トン数7009.2t)、第6船「フェリーあかし」(総トン数6987.0t)が就航し1日3便態勢となっています。
就航する船が徐々に大型化していることからも、その需要がよくわかります。
とくに団体利用が多く、1隻に1000人というのも日常的で、2等船室は雑魚寝状態だったとか。
年間旅客数は昭和48年度の104万人がピークで、以降はトラック輸送が主体に。
山陽新幹線や中国自動車道、山陽自動車道などが開通し、時間のかかる船旅が敬遠される時代になったのです。
「フェリー阪九」は、昭和51年1月24日、「第六阪九」も昭和51年5月16日に引退。
以降も続々と新造船が投入され、世代交代していきました。
昭和58年に新門司〜泉大津航路に就航した「ニューやまと」は、1万1919.0t。
ついに1万トンを超える大型フェリー時代に突入しています(近年は、トラックの運転手不足を受けてトラックだけ運ぶことも多いとか)。
1000円高速など、受難の時代もありましたが、こうした阪九フェリーの成功が、日本に長距離フェリーの時代をもたらしたことは明らかで、今も瀬戸内海航路に就航。
「いずみ」、「ひびき」、「せっつ」、「やまと」は、いずれも1万6000tクラスの超大型フェリー。
その豪華な内装、客室と(スイートルームも完備)、充実した料理には定評があり、一度は体験したい船旅になっています。
| 日本最初の長距離フェリーは、阪九フェリー(小倉港〜神戸港) | |
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