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善一田古墳公園(善一田古墳群)

善一田古墳公園(善一田古墳群)

福岡県大野城市にあるのが、善一田古墳公園(善一田古墳群)。福岡県の史跡に指定される善一田古墳群の発掘調査を行なった27基の古墳のうち最大の18号墳(円墳)など9基の古墳を保存整備した古墳公園で、出土遺物の一部は、「大野城心のふるさと館」で展示されています。

朝鮮半島との交流を物語る古墳群が公園に

6世紀後半(古墳時代後期)に築造された円墳の18号墳が、善一田古墳群で最初に築かれた古墳。
東西26m・南北22mで、善一田古墳群の中では最大の古墳です。
横穴式石室からは副葬品としてガラス玉、鉄刀、馬具、鍛冶具が出土しています。

18号墳のほか、10号墳、11号墳、12号墳、13号墳、14号墳、16号墳、17号墳、19号墳の合計9基が整備保存され、18号墳は玄室の内部を見学することができます。

善一田古墳群からは、朝鮮半島の新羅(しらぎ)で作られ、表面をスタンプ(縄を巻いた板でたたいて文様をつけた縄蓆文)で装飾することが特徴の新羅土器、新羅の貴族の間で流行した三累環頭大刀柄頭(さんるいかんとうたちつかがしら)も出土。
新羅土器は、液体や粉末状のものを運ぶための容器として朝鮮半島から運ばれたもので、大陸との交流を物語っています。
馬具なども出土することから朝鮮半島の動乱を避けて倭(日本)にやって来た渡来人なのかもしれません。

日本遺産「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」の構成文化財

善一田古墳群は、天智天皇4年(665年)に築造された古代山城の大野城(おおのき/国の特別史跡「大野城跡」、日本100名城)にも近く、大野城の築造にも関わった豪族のリーダーとも推測できます。

天智天皇2年(663年)、朝鮮半島の白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、唐・新羅連合軍に大敗、上陸を想定した北九州から瀬戸内、そして最終決戦地と目された生駒山には防御施設を設置しましたが、国際情勢が緊迫した時期と、善一田古墳群築造の時代(6世紀後半~7世紀後半)が重なっているのです。

大野城築城前後の地域社会の様子を明瞭に伝える遺跡として知られており、日本遺産「古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~」の構成文化財のひとつ。
おもな構成文化財は、大宰府跡(政庁跡) 、大宰府跡(客館跡)、大野城跡、水城跡、観世音寺、筑前国分寺跡、太宰府天満宮、基肄城跡、裂田溝、善一田古墳群。

「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」の概要
大宰府政庁を中心としたこの地域は、東アジアからの文化、宗教、政治、人などが流入・集積するのみならず、古代日本にとって東アジアとの外交、軍事拠点でもあり、軍事施設や都市機能を建設するのに地の利を活かした理想の場所であった。現在においても大宰府跡とその周辺景観は当時の面影を残し、宗教施設、迎賓施設、直線的な道や碁盤目の地割跡は、1300年前の古代国際都市「西の都」を現代において体感できる場所である。(平成27年度認定申請書から抜粋)

善一田古墳公園(善一田古墳群)
名称 善一田古墳公園(善一田古墳群)/ぜんいちだこふんこうえん(ぜんいちだこふんぐん)
所在地 福岡県大野城市乙金東1-29
関連HP 大野城市公式ホームページ
電車・バスで JR南福岡駅から西鉄バス上宇美行きで16分、乙金下車、徒歩5分
ドライブで 九州自動車道太宰府ICから約3km
駐車場 13台/無料
問い合わせ 大野城市地域創造部 心のふるさと館 TEL:092-558-2206/FAX:092-558-2207
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

大野城

太宰府(だざいふ)の北、なだらかに広がる四王寺山脈(福岡県宇美町・大野城市・太宰府市の境)にある古代の山城が大野城(おおののき)。水城(みずき)が造られた翌年、665(天智天皇4)年、大宰府の北の守りとして、南に備えられた基肄城(きいのき)

善一田18号墳

福岡県大野城市にある善一田古墳公園(善一田古墳群)で、6世紀後半(古墳時代後期)、古墳群で最初に築かれた円墳が、善一田18号墳。東西26m、南北22mの大きさがあり、古墳群では最大の規模を誇っています。埋蔵施設である横穴式石室の玄室の高さは

 

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