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前橋城(厩橋城)

前橋城(厩橋城)

群馬県の県都、前橋市にある平城で、江戸時代には前橋藩の藩庁にもなった城が前橋城(厩橋城)。天文3年(1534年)の利根川氾濫後にすでにあった石倉城の三の丸を修復し、城としたのが始まりというが定かでありません。戦国時代には長尾景虎(上杉謙信)の最前線として機能していました。

戦国時代には上杉謙信と小田原北条家の争奪戦の城に

永禄3年(1560年)に長尾景虎が前橋城(厩橋城)を攻略しますが、永禄6年(1563年)、小田原北条・甲斐武田の連合軍によって攻め落とされています。
その後も上杉と北条との間で攻防が続きますが、越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ軍事同盟「越相同盟」によって上杉謙信のものに。
謙信の死後の天正7年(1579年)勝頼率いる武田方に降伏。
武田氏の滅亡後に織田信長家臣の滝川一益が入城しますが、本能寺の変後は、再び北条氏が入城と目まぐるしく城主が代わっています。
さらに天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して豊臣方・浅野長政により攻め落とされ、関東に封じられた徳川家康が家臣・平岩親吉を城主にしています。

関ヶ原の合戦後に、酒井重忠が入城し、近世的な城郭へと整備。
3層3階の天守も造営されています。

江戸時代の半ばに厩橋は前橋と改められ、城も前橋城となりました。
本丸は常に利根川の浸食を受けたため、本丸の移転も行なわれています。

寛延2年(1749年)、姫路藩に転封となった酒井忠恭(さかいただずみ=老中首座)と入れ替わり、姫路藩から松平朝矩(まつだいらとものり)が15万石で前橋城に入城。
明和4年(1767年)閏9月15日、利根川の侵食によって本丸の危機を受け、幕府の許可を得て居城・藩庁を前橋から川越に移し、明和6年(1769年)に前橋城は破却されています。

その後も、前橋領民は藩主の前橋帰還を願い、郡代奉行・安井政章らにより利根川が改修されたこと、さらには横浜開港後により前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の財力を背景に、前橋城の再築城が行なわれ、慶応3年(1867年)3月、松平直克(まつだいらなおかつ)が前橋城に戻り、前橋藩が再興しています。

廃藩置県で、前橋城本丸御殿が前橋県の県庁となりましたが、その本丸御殿も昭和3年に老朽化で取り壊され、往時の遺構は残されていません。
現在、本丸跡には群馬県庁本庁舎があるほか、二の丸跡に群馬会館(旧公会堂)、前橋市役所、三の丸跡には前橋地方裁判所が置かれています。

明治維新後に前橋県庁となった前橋城本丸御殿
前橋城(厩橋城)
名称前橋城(厩橋城) /まえばしじょう(まやばしじょう)
所在地群馬県前橋市大手町
関連HP前橋市公式ホームページ
電車・バスでJR前橋駅から群馬中央バス新前橋駅西口ゆきで10分、遊園地坂下下車、徒歩5分
ドライブで関越自動車道前橋ICから約4.2km
駐車場10台/無料、前橋公園駐車場も利用可能
問い合わせ前橋観光コンベンション協会 TEL:027-235-2211
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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