群馬県吾妻郡東吾妻町(ひがしあがつままち)、吾妻川(あがつまがわ)北岸の岩峰、岩櫃山(いわびつやま)中腹に築かれた山城が岩櫃城。築城者は不詳ですが、戦国時代には長尾景虎(上杉謙信)、武田信玄に臣従する真田昌幸などの攻防の地となった城。続日本100名城にも選定されています。
岩峰の中腹に難攻不落の真田の名城が!
戦国時代、吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が、主君の大野憲直を討ち、岩櫃城を奪取し、吾妻地方を領有。
その後、永禄3年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)が関東侵攻の際、岩櫃城を攻め落としたともいわれますが、斉藤氏の手に戻り、その後、真田氏の侵略を受け、永禄6年(1563年)、越後に逃れています。
現存する城郭を整備したのは、武田信玄配下の真田昌幸(さなだまさゆき)で、沼田城(現・沼田市)・名胡桃城(みなかみ町)と、信濃国の上田城(長野県上田市)とを繋ぐ街道の拠点として大改造を行なっています。
中心となる主郭から、放射状に壕が整備される特殊な構造で、広い城郭内を上田とを結ぶ街道が通じています。
信玄没後の、天正10年(1582年)、主君である武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍に三河・長篠(長篠の戦い)で敗れ、新府城を焼き払って逃走する際、真田昌幸は武田勝頼を真田方の領地から岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとしています。
これも叶わず、岩殿山城に落ち延びようとして、岩殿山城主・小山田信茂(おやまだのぶしげ)の離反により武田勝頼は天目山で自刃し、武田氏は滅亡しています。
その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男・真田信之(さなだのぶゆき/後に信濃上田藩の初代藩主)に委ねますが、天正17年(1589年)、徳川家康とも和睦が成立し、徳川政権下、大坂の陣のあった慶長19年(1614年)に岩櫃城を破却しています。
大河ドラマ『真田丸』で注目され、登城口に「岩櫃山平沢登山口観光案内所」が設置されています。
岩櫃山という岩峰全体を城としているため、まさに天然の要害で、甲斐の岩殿山城、駿河の久能城と並び武田の三堅城とされています。
東側の防御に重点を置いているのは、上杉、北条の城攻めを意識して。
「岩櫃山平沢登山口観光案内所」から本郭までは徒歩30分。
岩櫃山(802.8m)は、地質的には600万年前(新生代新第三紀中新世末期)に活動した吾妻古火山が浸食された岩峰で、南面の200mにもおよぶ絶壁は大迫力。
この地形を巧みに活かして様々な仕掛けで防御した、まさに真田丸の原点ともいえる城が岩櫃城です。
岩櫃城 | |
開催日時 | 沼田城、名胡桃城、上田城と相互リンクをお願いします |
名称 | 岩櫃城/いわびつじょう |
所在地 | 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 |
関連HP | 東吾妻町観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR群馬原町駅からタクシーで7分、または、徒歩40分 |
ドライブで | 関越自動車道渋川伊香保ICから約26km |
駐車場 | 岩櫃山平沢登山口駐車場(50台/無料) |
問い合わせ | 東吾妻町まちづくり推進課 TEL:0279-68-2111 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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