神戸海軍操練所跡

神戸海軍操練所跡

元治元年(1864年)5月、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の進言で、大坂湾防備を念頭に神戸に築かれた海軍士官養成機関の跡が神戸海軍操練所跡。京橋筋南詰には錨(いかり)を模した神戸海軍操練所跡碑が立っています。

わずか1年ほどですが、この地に神戸海軍操練所が!

日米和親条約が締結された安政元年(1854年)、ロシアのプチャーチン率いるディアナ号が、兵庫津、明石海峡に来航したことから、翌安政2年(1855年)、幕府によって大坂湾防衛計画が策定され、周辺諸藩に対して台場築造、大砲鋳造の命令が下されました。

文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の台場の巡見が行なわれますが、巡見に随行した勝海舟は、将軍から直々に神戸海軍操練所設置の許可を得ています。
元治元年(1864年)5月に神戸海軍操練所が設置され、練習艦「観光丸」、「黒龍丸」の2隻を配備しています。
10月には和田崎(和田岬)に砲台が築かれているので、大坂湾防備にとっての神戸の重要性がわかります。

塾頭は坂本龍馬(土佐藩を脱藩)で、陸奥宗光(紀州藩の尊王攘夷派)、伊東祐亨(薩摩藩)、北添佶摩(土佐藩脱藩)、望月亀弥太(土佐藩脱藩)など、幕臣ではない尊王攘夷派が多かったことから慶応元年(1865年)に閉鎖されています。
つまり、神戸海軍操練所が実質的に機能したのはわずか1年ほど。
施設は、神戸港築港の先駆者といわれる網屋吉兵衛(あみやきちべえ)が神戸村安永新田浜に築造した船蓼場(ふなたでば=フナクイムシを駆除するための乾ドック)を利用して造られています。

文久3年(1863年)、網屋吉兵衛は、小野浜(現・神戸市中央区小野浜町)で、勝海舟の仲介で巡見途中の徳川家茂に謁見。
徳川家茂は、日米修好通商条約に基づく開港場とすることの是非を質問し、網屋吉兵衛はこの上ない適地だと回答しています。
神戸港が開港するのは、慶応3年12月7日(1868年1月1日)なので、まさに開港直前に設置されたことになりますが、当時漁村だった神戸を見い出し、港町へと発展するきっかけを築いたのは勝海舟と網屋吉兵衛いえるでしょう。

開港に伴い、船蓼場は江戸幕府に接収され、東運上所(税関)の船入場として利用され、現在の第五管区海上保安本部(神戸市中央区波止場町1-1)の巡視艇の係留地として受け継がれています。

神戸海軍操練所跡
名称 神戸海軍操練所跡/こうべかいぐんそうれんじょあと
所在地 兵庫県神戸市中央区新港町17-17
電車・バスで JR三ノ宮駅、市営地下鉄・阪急・阪神・ポートライナー三宮駅から徒歩15分
ドライブで 阪神高速神戸線京橋出口から600m
駐車場 メリケンパーク駐車場(630台/有料)などを利用
問い合わせ 神戸国際観光コンベンション協会 TEL:078-303-1010
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
旧明石藩台場跡

旧明石藩台場跡(舞子砲台)

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神戸海軍操練所・陸奥宗光顕彰碑

神戸海軍操練所・陸奥宗光顕彰碑

2018年2月1日

 

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