広島県竹原市、芸予諸島のひとつ、大久野島には、明治時代、芸予要塞の北部砲台、中部砲台、南部砲台が築かれ、後に毒ガス開発の島となり、結果として自然が守られたことから、戦争遺跡として明治時代の砲台群が残されています。島の玄関口、第二桟橋近くの高台にあるのが南部砲台跡です。
島の南部、第二桟橋近くにある砲台の遺構
芸予要塞は、日清戦争後、広島と呉という軍事拠点を守備する瀬戸内海防備の重要性から、大久野島と愛媛県側の小島に築かれた大砲群。
大久野島には北部、中部、南部の3ヶ所、そして対岸の忠海町・冠崎(かぶらざき)にも砲台が築かれました。
島の南側、島の表港(現在の第一桟橋)も防備した南部砲台は、明治31年2月着工、明治33年8月竣工。
24cm加農砲(カノン砲)4門と9cm加農砲(カノン砲)4門が備えられていました。
加農砲(カノン砲)は低い弾道で長距離射撃ができるという特徴があり、当時の海岸砲には最適だったのです。
島の玄関口でもある第二桟橋近くの発電場跡から小高い丘を上れば、南部砲台跡。
島に3ヶ所ある砲台のなかでも最小規模ですが、毒ガス資料館のある第一桟橋側に下る周回ルートも可能で、手軽に寄り道ができる場所です。
もともとは、豊予海峡に砲台群が築かれる構想でしたが、日清・日露戦争時の加農砲(カノン砲)の射程距離から豊予海峡では砲弾の届かない海峡部が生じることから、芸予要塞が構築されたもの。
その後、射程距離が伸び、大正13年〜大正15年に豊予要塞が築かれたことで、海峡守備の役割を終え大正13年12月廃止されています。
大久野島・南部砲台跡 | |
名称 | 大久野島・南部砲台跡/おおくのしま・なんぶほうだいあと |
所在地 | 広島県竹原市忠海町大久野島 |
関連HP | 竹原市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 大久野島第一桟橋から徒歩10分、大久野島第二桟橋から徒歩10分 |
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