大久野島・北部砲台跡

大久野島・北部砲台跡

広島県竹原市、芸予諸島のひとつ、大久野島には、明治時代、芸予要塞の北部砲台、中部砲台、南部砲台が築かれ、後に毒ガス開発の島となり、結果として自然が守られたことから、戦争遺跡として明治時代の砲台群が残されています。島の北部にある砲台跡が、北部砲台跡です。

大久野島の北端に設置された海峡防備の砲台跡

芸予要塞は、日清戦争後、広島と呉という軍事拠点を守備する瀬戸内海防備の重要性から、大久野島と愛媛県側の小島に築かれた大砲群。
大久野島には北部、中部、南部の3ヶ所、そして対岸の忠海町・冠崎(かぶらざき)にも砲台が築かれました。

大久野島北部、冠崎砲台とともに忠海側の海峡を守備した北部砲台は、明治30年3月と芸予要塞で最初に着工された砲台で、明治33年6月竣工。

島の玄関口、そして休暇村大久野島の建つ中心部(三軒家)から離れていることもあり、観測所も含めて要塞時代の遺構がよく残されています。

12cm速射加農砲(カノン砲)が2門が2ヶ所、24cm加農砲(カノン砲)が1門が4ヶ所に配されていました。
加農砲(カノン砲)は低い弾道で長距離射撃ができるという特徴があり、当時の海岸砲には最適だったのです。

もともとは、豊予海峡に砲台群が築かれる構想でしたが、日清・日露戦争時の加農砲(カノン砲)の射程距離から豊予海峡では砲弾の届かない海峡部が生じることから、芸予要塞が構築されたもの。
その後、射程距離が伸び、大正13年〜大正15年に豊予要塞が築かれたことで、海峡守備の役割を終え大正13年12月廃止されています。

北部砲台跡広場と呼ばれる場所には発電施設が置かれていましたが、芸予要塞廃止後、大久野島で毒ガス開発が始まるとタンク群に代わっています(タンクの土台のみ現存)。
砲台の一部もその際にタンク群のための通路開削で破壊され、砲台自体にもタンクが設置されています。

大久野島・北部砲台跡
大久野島・北部砲台跡
名称 大久野島・北部砲台跡/おおくのしま・ほくぶほうだいあと
所在地 広島県竹原市忠海町大久野島
関連HP 竹原市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 大久野島第一桟橋から徒歩20分、大久野島第二桟橋から徒歩15分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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