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富士見塚古墳

富士見塚古墳

茨城県かすみがうら市、霞ヶ浦の畔、柏崎地区にあるのが富士見塚古墳。墳丘長78m、高さが11.5mという巨大な前方後円墳の1号墳、円墳の2号墳、3号墳の3基は富士見塚古墳公園内に整備され、見学が可能。墳丘の上からは、その名の通り晴れていれば富士山を仰ぐことができ、富士見塚古墳公園展示館も整備されています。

霞ヶ浦畔の眺望の良い丘に築かれた古墳

1号墳の前方後円墳は、かすみがうら市最大の古墳。
周囲に幅16m~26mの盾形周濠が巡り、前方部と後円部の間のくびれ部の南西側には造出(つくりだし=埋葬主体説、祭壇説などがありますが、祭祀の場という祭壇説が有力)が設けられています。
2号墳は直径が34m、3号墳は直径27mの円墳でともに周濠が巡らされています。

出土遺物から築造年代は、1号墳と2号墳が5世紀末~6世紀初頭、3号墳が6世紀後半と推測され、ヤマト王権の強い影響力が霞ヶ浦まで及んでいたことがわかります。
古墳築造当時は、霞ヶ浦はまだ内海の香取海(かとりのうみ)で、ヤマト王権のある西国と東国を結ぶ重要な交易路で、富士見塚古墳のある一帯はその入江にあたります。

3号墳の石棺からは女性と思われる人骨が出土、副葬品もガラス小玉が出土し、1号墳、2号墳とは1世紀近くの隔たりがあるので、埋葬された女性自身が権力の座にあったことがわかります。

一帯には稲作に適した沿岸湿地が広がり、豪族の支配下で、新田開発によって次第に生産力が上がり(6世紀初頭に新田開発が行なわれていたことが判明しています)、冬期の余剰労働力を古墳築造に動員できたのだと推測されています。
筑波山、富士山を眺める霞ヶ浦の畔、さらに東国開発の祭神として祀られる鹿島神宮に近いという場所から、霞ヶ浦の舟運を掌握した豪族だったことがよくわかります。

霞ヶ浦北辺の石岡市の舟塚山古墳(関東第2位の巨大な前方後円墳)は、国造の筑紫刀禰(つくしとね)の墳墓ではないかと推定されていますが、富士見塚古墳の被葬者に関してはよくわかっていません。
霞ヶ浦周辺には、かすみがうら市の太子古墳(「太子のカロウド」)、行方市の三昧塚古墳(さんまいづかこふん)、潮来市の大生古墳群(110余基の古墳からなる大規模な古墳群で、鹿島神宮の創建時に畿内から移住した人々の奥津城ではないかと推定されています)もあるので、時間が許せば寄り道を。

富士見塚古墳
名称 富士見塚古墳/ふじみづかこふん
所在地 茨城県かすみがうら市柏崎1553-3
関連HP かすみがうら市公式ホームページ
ドライブで 常磐自動車道千代田石岡ICから約18km、または、土浦北ICから約19km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 富士見塚古墳公園展示館 TEL:029-896-0174
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

舟塚山古墳

霞ヶ浦の湖畔、恋瀬川河口近くにある墳丘長186mの前方後円墳が舟塚山古墳で、国の史跡。茨城県最大、東日本でも天神山古墳(群馬県太田市/墳丘長210m)に次ぐ規模を誇る巨大な古墳です。5世紀後半の築造で、被葬者は初代茨城国造(いばらきのくにの

太子古墳

茨城県かすみがうら市、富士見塚古墳公園北西、茨城県道118号(石岡田伏土浦線)沿いにある古墳が、太子古墳。地元では「太子のカロウド」と称され、明治時代の開墾で削平され、横穴式石室のみが露出しています。貴重な装飾古墳としても知られますが、風化

鹿見塚古墳

茨城県潮来市、北浦西岸を走る茨城県道187号(矢幡潮来線)沿いの大生(おおう)地区にあるのが、鹿見塚古墳(しかみづかこふん)。墳丘長58mの前方後円墳で、大生古墳群の盟主的な存在。古墳時代中期(5世紀)の築造で、畿内から移住したオフ氏(飯富

三昧塚古墳

茨城県行方市(なめがたし)、霞ヶ浦(西浦)の北岸の沖積地は、古代の豊かな漁業資源、水運の便利さなどを反映して数多くの古墳がある古墳密集地帯(沖洲古墳群)。そのうちのひとつ三昧塚古墳(さんまいづかこふん)は、墳丘長82.1mの前方後円墳。一帯

 

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