石川県金沢市湯涌温泉(ゆわくおんせん)、総湯「白鷺の湯」の奥、浅野川支流の湯ノ川を堰き止めた玉泉湖の南岸にあるのが、氷室(ひむろ)。旧暦6月1日(西暦だと7月上旬頃)の『氷室の節句』に合わせ、加賀藩が徳川将軍家に献上した雪氷を保存した氷室を、昔ながらの工法で復元しています。
徳川将軍家献上の雪氷を今に伝える氷室
玉泉湖畔の氷室では、毎年6月30日には『氷室開き』も行なわれています(氷室の仕込みは1月)。
金沢周辺では、7月1日に氷室饅頭(ひむろまんじゅう)が店頭に並びますが、これは『氷室の節句』の名残りです(氷室の氷が庶民には手が届かない高価な品だったため、氷の代わりに麦で作ったまんじゅうを食して無病息災を願ったもの)。
加賀藩は、厳寒の大寒(だいかん/現在の1月下旬)に白山山系に積もった新雪を氷室に貯蔵し、6月朔日(ついたち/旧暦の6月1日=現在の7月上旬)に『氷室開き』を行ない、将軍家へ「白山氷」として献上していました。
旧暦6月1日に行なわれた『氷室御祝儀』(『賜氷の節』、『氷室の節句』)では、冬の雪水で作った折餅(へぎもち)、氷餅(こおりもち)などを祝って食べるという風習があったので、この節句に間に合わせるように、加賀藩・前田家は江戸へと雪氷を運んだのです(氷と記述されながらも実際は雪氷)。
旧暦6月1日は、「氷朔日」(こおりのついたち)と呼んで、江戸の夏の始まりだったのです。
金沢城から江戸城までの道のりは北国街道で長野、信濃追分へ、さらに中山道で碓氷峠を越えるルート(現在の北陸新幹線に沿うルート)で480kmもあり、加賀飛脚と呼ばれた人たちが、遠路をまさに駆け抜けて氷を江戸城へと届けていました(別の説として、針ノ木峠を越える、北アルプス横断ルートを使い、佐久・岩村田から十石峠を越えて秩父に抜けるコースなどもあります)。
通常は片道12泊13日という行程でしたが、それでは雪氷が完全に溶けてしまうので、昼夜を問わず4日間走り続けたと伝えられています。
この儀式は、江戸庶民にも有名で、「六つの花五つの花の御献上」(六つの花=雪の結晶、五つの花=加賀藩前田家の家紋、剣梅鉢紋のこと)と川柳でも詠まれています。
ただし、後に、初夏の輸送ではあまりに大変なので、江戸本郷・加賀藩上屋敷(現・東京大学本郷キャンパス)に氷室を設置し、冬期間に金沢から雪氷を運び、氷献上に用いることに変化したとも推測されています(あるいは補助的な目的だったのかもしれません)。
天保9年(1838年)の『東都歳時記』には、「六月朔日 氷室御祝儀賜氷の節 加州候御藩邸に氷室ありて今日氷献上あり。町家にても旧年寒水を以て製したる餅を食してこれに比らふ」と記されています。
富士山の雪も夏場に江戸城へと運ばれていましたが、宝永4年(1707年)の富士山・宝永火山の噴火後は、加賀藩がメインになったと推測できます。
氷室は、昭和61年に、湯涌温泉観光協会が中心となって復活を目指し、金沢市などが協力して氷室を復元したもので、間口3m、奥行き4m、深さ2.5mで、昔ながらの工法でつくられています。
湯涌温泉観光協会によれば、「藩政時代の初期には白山北麓の石川郡倉谷四ヶ村(現・金沢市倉谷町)の氷室の氷が使われていましたが、5代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)の頃、金沢城近郊や兼六園に多くの氷室が設けられ、町民も氷を食することが許されました」とのこと。
湯涌地区でもでも氷室小屋が散在し、戦前までは使われていたそうです。
湯涌温泉・氷室 | |
名称 | 湯涌温泉・氷室/ゆわくおんせん・ひむろ |
所在地 | 石川県金沢市湯涌町 |
関連HP | 湯涌温泉観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR金沢駅から北鉄バス湯涌温泉行きで50分、湯涌温泉下車、徒歩5分 |
ドライブで | 北陸自動車道金沢東IC・金沢西ICから約19km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 湯涌温泉観光協会 TEL:076-235-1040/FAX:076-235-1233 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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