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玉藻公園・披雲閣

披雲閣はかつての高松城三の丸にあたる場所に建ち、藩政時代には藩主の住居となっていた三の丸御殿の名称。明治維新後、往時の披雲閣は老朽化を理由に取り壊されましたが、高松松平家の12代当主・松平賴寿伯爵(高松藩最後の藩主・松平頼聡の嫡男)が大正6年に再建しています。

大正時代に建てられた華族の別邸、香川の迎賓館

ソテツの間

伯爵の別邸として、3年の歳月と15万余円の巨費を投じて大正6年に完成しました。
華族となっていた藩主家の高松における住居で、皇族の宿泊にも使われています。

50坪あるソテツの間は、松平家所蔵の美術、工芸品、歴史資料などを陳列していた部屋。
ちなみに各部屋はそれぞれ専用の庭を保有し、ソテツが茂る庭を眺めるのが、ソテツの間の名の由来です。
中庭の藤棚を愛でるのが女中部屋に使われた「藤の間」、昭和天皇・皇后が宿泊された「波の間」は、瀬戸内海を眺めるのが名の由来です。

玉藻公園・披雲閣
名称玉藻公園・披雲閣/たまもこうえん・ひうんかく
所在地香川県高松市玉藻町2-1
関連HP玉藻公園公式ホームページ
電車・バスでJR高松駅から徒歩3分
ドライブで高松自動車道高松中央ICから約6km
駐車場玉藻公園駐車場(57台/無料)
問い合わせ玉藻公園管理事務所 TEL:087-851-1521/FAX:087-823-6390
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

高松城跡内濠遊覧 和船「玉藻丸」

今治城(愛媛県今治市)、中津城(大分県中津市) と並んで日本三大水城に数えられる高松城。埋め立てや市街化が進んではいますが、今も内堀は海とつながり、水門で水位が管理されています。そんな内堀を和船で遊覧するのが「玉藻丸」です。玉藻公園では城舟

玉藻公園(高松城)

玉藻公園は、玉藻城とも呼ばれる高松城の城跡。高松城は1588(天正16)年、豊臣秀吉の重臣・生駒親正(いこまちかまさ)の築城以来、生駒4代、松平11代にわたって歴代高松藩主の居城となった城。現存する遺構は、1642(寛永19)年、水戸藩初代

高松城・鞘橋

高松城の二の丸と本丸を結び、内堀に架かる橋が鞘橋(さやばし)。本丸への唯一の登城ルートになっています。現在の橋は切妻造りの屋根で銅板葺き、そして切目のない腰板の付いた珍しい木橋で、明治17年に建て替えられたもの。さらに昭和45年〜46年に大

高松城本丸

二の丸から鞘橋(さやばし)を渡ると本丸です。本丸虎口を経て本丸へと入る構造になっています。本丸には東端に天守、北面に中川櫓と呼ばれる櫓門と中櫓、北西隅には矩櫓(かねのやぐら)、南西隅には地久櫓(ちきゅうやぐら)が建ち、これらを多聞(たもん)

高松城三の丸

高松城の三の丸には現在、大正時代に建てられた披雲閣があります。生駒時代から松平時代の初期にかけては倉庫が数棟建てられていましたが、1700(元禄13)年に二の丸にあった御殿が廃され、御殿(旧披雲閣)が建てられ、藩政の中心地となりました。三の

高松城二の丸

JR高松駅やことでん高松築港駅に近い玉藻公園の西口を入ると高松城二の丸。江戸時代には、現在の西口あたりに西の丸からの二の丸入口となる刎橋口(はねばしぐち)と呼ばれる門がありました。三の丸側から入る鉄門(くろがねもん)が二の丸の正門として機能

玉藻公園・内苑御庭

内苑御庭は高松城三の丸に築かれた藩政時代の庭をもとに、大正5年頃に手を入れた枯山水の庭。大正3年〜6年に再建された披雲閣の庭園として築庭されたものです。老松の緑のなかに江戸時代の三尊石や重さ11tといわれる手水鉢や大飛石が配されています。藩

玉藻公園・披雲閣

披雲閣はかつての高松城三の丸にあたる場所に建ち、藩政時代には藩主の住居となっていた三の丸御殿の名称。明治維新後、往時の披雲閣は老朽化を理由に取り壊されましたが、高松松平家の12代当主・松平賴寿伯爵(高松藩最後の藩主・松平頼聡の嫡男)が大正6

高松城・月見櫓

高松城の内苑御庭北側の北の丸にあり、北から月見櫓・水手御門・渡櫓と連続している重要文化財の櫓。月見櫓は1676(延宝4)年の上棟で、3つの建築物ともその前後の築年と推測され、国の重要文化財に指定されてます。今治城(愛媛県今治市)、中津城(大

高松城・艮櫓

藩政時代には20の櫓があり、海上から見るとまさに浮城のように見えたという高松城(玉藻公園)。艮櫓(うしとらやぐら=丑寅櫓)は高松城東の丸にあった隅櫓(すみやぐら)で、北東(丑寅の方角)という高松城の鬼門を鎮護していた櫓です。高松城東の丸にあ

 

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