北は岩手県から南は鹿児島県まで全国に16万基ある古墳。日本最大の古墳で、世界最大級の墳墓である大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など、権力の象徴である大規模な古墳は前方後円墳ですが、そもそも前方後円墳は、どちらが前なのでしょうか!? 天皇陵の拝所(はいしょ)は前方部を拝む形ですが・・・。
前方部が正面という通説には反証も!
古墳はおもに古墳時代に築かれた土を盛り上げて築いた墳丘(ふんきゅう)を持つ墓のこと。
時の権力者とその一族が埋葬された墳丘で、大仙陵古墳(仁徳天皇陵/大阪府堺市)は、墳丘長525mで、墳丘の長さが日本で一番長い古墳、羽曳野市にある誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん=応神天皇陵/大阪府羽曳野市)は高さ36mでこんもり度では日本一を誇っています。
こうした超大な古墳は、いずれも前方後円墳。
前方後円墳は、纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん/奈良県桜井市)が最初だと推測され、3世紀中頃〜7世紀初頭に築かれた日本列島独特の古墳で、ヤマト王権が設立後、畿内大王墓もこの前方後円墳です。
大化2年(646年)、造墓の制限や禁止に関する「大化薄葬令」で巨大古墳は築かれなくなりますが、前方後円墳は合計で5000基前後が築かれています。
「前方後円」の名は、江戸時代後期の国学者で尊王論者の蒲生君平(がもうくんぺい)が、寛政8年(1796年)〜寛政12年(1800年)に天皇陵を調査して『山陵志』を著した際、「その制をなすや、かならず宮車にかたどり、而して前方後円となさしめ、壇をなすに三成とし、かつ環らすに溝をもってす。それ其の円にして高きは、蓋を張るがごときなり。頂は一封をなす」と記し、この調査結果が後世の考古学にとっても貴重なものとなったため、前方後円墳という名が付けられました。
天皇陵の研究を皇室を尊び先祖を敬うことの重要性につながると考えた蒲生君平は、墳丘を真横から見た姿を、中国皇帝の遺体を運ぶ「宮車」(きゅうしゃ)にも例えています(この研究が、幕末の尊王攘夷運動にもつながっています)。
中国の古典に精通する蒲生君平は、前方後円墳という形式の意味を中国の古典から読み解こうとしたのです。
つまり、馬が牽引する部分を前方部、棺(ひつぎ)を納めた宮車の本体を後円部と解釈。
前方部と後円部の接続部にある「造り出し」部分を車輪と見立て、馬が引く側が前になるため「前方後円墳」と呼んだのです。
幕末の文久2年(1862年)、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃する「坂下門外の変」が勃発しますが、宇都宮の儒学者・大橋訥庵一派が暗殺計画に加わっていたことが発覚。
宇都宮藩は幕府に恭順していることを示すため、文久3年(1863年)〜慶応元年(1865年)にすべての天皇陵の修復を行なっています。
この際、扉付きの鳥居など拝所(はいしょ)を築いていますが、実は蒲生君平が宇都宮出身(宇都宮の商家の出)ということもあって、蒲生君平の理解に則って、前方部を正面として拝所を築いています。
古代中国の宇宙観では、人間界を取り巻く宇宙は、天は円形に、大地は方形に象られた「天円地方」の構造をもつとされていたので、前方部の方形が大地、後円部のが天とも推測できるのです。
こうして考えると、あくまで前方部が正面とも思えるのですが、平成25年、ニサンザイ古墳(堺市)で後円部主軸上の背後から、幅11m、全長55mという超大な木橋の跡が出土し、被葬者の遺体を後円部の石室に運び入れた特別な橋と考えられるため(橋が意図的に撤去されているため)、前方部が正面だという説に対して、明確な反証となったのです。
結論をいえば、拝所のある前方部が正面なのかどうかは、未だに謎ということに!
ちなみに前方後円墳ですが、英語では、Keyhole-shaped tumulus(鍵穴の形をした墳丘)と訳され、鍵穴型古墳ということに。
前方後円墳、そもそもどちらが前!? どこが正面!? | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag