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日本三名橋・錦帯橋はなぜ渡りづらい太鼓橋になっている!?

錦帯橋

山口県岩国市の錦川に架橋される錦帯橋(きんたいきょう)。絵になる橋として有名で、世界文化遺産登録を目指す名橋です。5連の木造アーチ橋ですが、寺社の参道に架けられる太鼓橋のように、歩く部分がアーチ状になっていて渡りづらい橋に。どうして渡りづらい橋が架けられたのでしょう?

錦帯橋にはなぜ世界唯一の美しさがある?

5連の木造アーチ橋(5径間木造アーチ橋)で、正確にいえば、中央部の3連は迫持式(せりもちしき)といわれるアーチ構造、両端の2橋はゆるやかな反りを有する桁橋(けたばし=桁に床板をのせた最もシンプルな橋梁形式)構造です。

橋に高さは、最も低い第1橋(岩国市街寄り)で川床から8.78m、最も高い中央の第3橋で川床から13.03mと4m以上の差があります。

どうして渡りづらい橋が架けられたのかといえば、多くの人が渡っても橋が落ちない工夫から。
古代のメソポタミアにはすでにレンガ造りのアーチ橋があったことがわかっていますが、紀元前1世紀頃にその技術が古代ローマに伝わり、数多くのアーチ橋が築かれました。

アーチ橋は、橋桁に荷重がかかると、橋桁部分のアーチ部材を押し広げようとする水平力が発生、地盤から生まれる反力が、アーチ反力(水平反力+鉛直反力)としてこれを打ち消し、バランスを保つという構造。
3つのアーチの途中には支柱もなく、両端を水平に固定することによって全ての重さを支えるという構造で、江戸時代からその美しさで名所としても知られていました(支柱がないことで激流による橋の流失を防止しています)。

反りの少ないアーチ橋ほど支点にかかる水平力が大きくなり、架設も難しくなるため、大きく反ったアーチ橋を築いているのです。

しかも錦帯橋は、中国杭州の西湖にある「錦帯橋」をモデルにして延宝元年(1673年)に架橋された歴史ある橋で、架橋翌年には洪水で流出、その後、改良が進められて現在の形になっています。

継手や仕口といった組木の技術によって造られ、アーチ部分は20年に一度架け替えが行なわれることで、大工技術の伝承が行なわれてきました。
平成13年に実施された平成の架け替えでも幅広い年齢層から大工を起用し、将来の架け替えに備えています。
架橋にあたっては、「木を観る」技術が欠かせませんが、それは大工の口伝(くでん)で伝承されているのです。

錦帯橋を築いた吉川家は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで吉川広家(きっかわひろいえ=吉川元春の三男)が主家・毛利輝元(西軍の総大将)に背いて、東軍加担を主張し、東軍に内通、戦後、毛利家への抑えとして岩国3万石を領有しました。
その際、対毛利という戦力上の配慮から、洪水の危険がある暴れ川の錦川脇に山城を築き、対岸に城下町を配したのです。
城と城下が分断されることを避けるために、架けられたのが錦帯橋で、錦帯橋が渡りづらいアーチ橋なのは、大軍の進軍を阻むためではなく、流されるなどの落橋の危険度を下げるためだったのです。

「世界的にもたいへん希(まれ)な構造。これは流されない橋を作りたいという先人たちの情熱と、独自に発展した架橋技術によって生み出されたものです」(岩国市)。

日本三名橋・錦帯橋はなぜ渡りづらい太鼓橋になっている!?
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