【知られざるニッポン】vol.36 鬼怒川ライン下りに知る、鬼怒川舟運の歴史

鬼怒川ライン下り

全国各地にある「川下り」ですが、その背景には江戸時代から明治時代の物資運搬に使われた舟運の歴史が隠されていることがほとんどです。舟運や筏流し(いかだながし)の歴史が観光客を乗せたライン下りに変身したのが、栃木県日光市の鬼怒川ライン下りです。実は、鬼怒川温泉は、江戸時代は会津西街道の宿場町だったのです。

会津西街道(下野街道)で運ばれた産物が、舟で江戸へと運ばれた

鬼怒川ライン下り
鬼怒川温泉で人気の「鬼怒川ライン下り」

元禄4年(1691年)、会津西街道(下野街道)の大原宿に温泉が発見されたのが、鬼怒川温泉の始まりで、当初は滝温泉と呼ばれて村民管理されていましたが、日光奉行の目に止まり、宝暦元年(1751年)、日光奉行に所有権が移され、日光山輪王寺・東照宮に参詣に訪れる諸大名や日光山輪王寺の天台僧侶などの占有になりました。

その大原宿の脇を流れるのが鬼怒川。
『鬼怒川筏流し唄』という船頭唄が残されるように上流から木材が筏(いかだ)となって流されていました。

もうひとつ、今に伝わる鬼怒川の舟唄が『鬼怒の船頭唄』(『鬼怒の船頭唄全国大会』も行なわれています)。
♫ハァー 舟は出て行く ハァー 板戸の河岸(かし)を ハァー 江戸への土産に ヤレサ 米と酒 (ハァー ギチコン ギチコン)

「板戸の河岸」というのは江戸時代に鬼怒川舟運で繁栄した板戸河岸(現・宇都宮市板戸町)。
河岸というのは問屋が並んだ川湊(かわみなと)のこと。

会津西街道で運ばれた会津の米、酒、漆器、たばこ、最上や米沢(出羽国)の紅花、ろう、漆器を、ここで舟に積み替え江戸に運ぶために、板戸河岸には問屋が並んでいました。
逆に、江戸から東北へは、貴重な塩などが運ばれたのです。

当時、宇都宮や鬼怒川の流域では地元の農産物などを運ぶ物流の手段としても、舟運が活用され、高瀬舟や小鵜飼舟が鬼怒川を行き来していました。

また、街道から河岸まで板戸堀が掘られ、馬から下ろした荷を小舟で河岸まで運んでいました。
そのため「舟は出て行く ハァー 板戸の河岸を」の部分を「舟は出て行く ハァー 板戸の堀を」と唄う人もいたのだとか。
鬼怒川舟運の船頭達が愛唱したのが『鬼怒の船頭唄』で、昭和30年代のNHK『ふるさとのうた』で紹介されて、全国区に。
平成4年には鬼怒の船頭唄保存会も発足し、板戸河岸には「鬼怒の船頭唄の碑」も立っています。

宇都宮にあった板戸河岸から鬼怒川、利根川、江戸川経由で江戸へ

3代目・歌川広重『大日本物産圖會 下総國醬油製造の圖』

板戸河岸(現・宇都宮市)を起点に、鬼怒川から利根川に入り、千葉の関宿まで利根川を上流へと遡り、その後関宿で江戸川に入って江戸(奥州筋船積問屋/現・中央区小網町)に到達するという少し複雑なルートをたどりました(時代によって変遷しています)。
それでも人が1俵(60kg)、馬が米2俵(120kg)を運ぶのに精一杯の時代に、200~1200俵を運ぶ高瀬舟(小鵜飼船では25俵、上州ひらた船200~1200俵)は、非常に重宝されたのです。

江戸川と利根川に挟まれた野田で醤油の生産が盛んだったのも、下野の国(栃木県)から鬼怒川を使った大豆の出荷が盛んで、小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)、大きな要因になっています。
野田では江戸川の野田下河岸(今上河岸)を利用して醤油産業が栄えたのです(旧廻船問屋「桝田家住宅」が現存)。
利根川の河口に位置する銚子で醤油が醸造されたのも、大豆(常陸)が利根川で運ばれるなど同じ理由から。

鬼怒川には川石が多く、水深も浅いという欠点があり、徳川幕府は浚渫を行なったりもしましたが、雪解けや雨による増水、急流という難点は残され、明治以降は鉄道輸送などに変わっていきます。
明治19年6月、日本鉄道(現・東北本線)の利根川橋梁が完成し、上野駅〜宇都宮駅全通(明治23年に今市まで延伸)は、鬼怒川舟運にとっては致命的な打撃となり、以降は鉄道輸送にと推移していきました。

鬼怒川ライン下り

鬼怒川ライン下り

2018年7月21日

 

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。

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