神奈川県横浜市中区末吉町、明治元年、初代の高橋音吉(たかはしおときち)が鉄なべ使用の牛鍋を創案したという牛鍋(うしなべ)の元祖が、太田なわのれん。幕末に牛肉の串焼きを屋台で売り始めた音吉が、明治元年、煮て食べる方法を考案し、味噌味の牛鍋として出したという老舗で、文明開化の味を今に伝える名店。
文明開化で広まった和洋折衷料理の牛鍋を今に伝える名店
神奈川(横浜)開港・文明開化後、急速に広まった和洋折衷料理の牛鍋。
明治5年、明治天皇が富国強兵の一環で、肉食奨励のため、牛肉を試食したことが新聞で報じられたことも、肉食の広まりに拍車をかけ、それまで経験のなかった牛肉が注目されるようになりました。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈などによって仏教的な肉食禁止が解禁され、「日本人にとって、肉は薬であり、それを用いずに虚弱であるのはすなわち一国の損亡であり、一軒の家で病人が多いのはわが家系だとして薬を用いないのが賢明だといえるか」(福沢諭吉)という風潮から、横浜、そして東京では牛肉を売る店が急増したのです。
最初に牛肉を食べたのは、幕末に横浜などの居留地の外国人や、駐留した兵士でした。
牛鍋屋のルーツは定かでなく、 文久2年(1862年)の「伊勢熊」(『横浜市史稿風俗編』)ともいわれていますが、高橋音吉の創始した店は、間違いなく「現役最古参の牛鍋屋」ということに。
高橋音吉も牛肉の串焼き屋台が評判だったため、現・末吉町に店を構え、炭火の七輪に浅い鉄鍋を載せ、独特の牛鍋を考案したのが、今に続く太田なわのれんの牛鍋です。
当初は、牛肉の臭みを消すため、従来の牡丹鍋(山猪鍋)に真似て味噌で煮るのが主流でしたが、太田なわのれんの牛鍋は、今も当時と同じ江戸前みその特製たれ仕立てになっています。
牛肉の切り方も個性的ですが、これは初代高橋音吉が、薄く切るのは面倒とぶつ切りにしたところ、味噌にピッタリとあったからとのこと(外人用の食用肉の切り落しを入手し、そのまま利用したという説も)。
「なわのれん」という少し不可思議な店名は、当時雨が降ると泥田と化した吉田新田に明治18年、2代目が自費で道路を建設。
その間に仮設店舗を太田(赤門付近)に開き、縄のれんを下げていたところ「太田縄のれん」と呼ばれるようになったのが由来。
縄のれんはハエを防ぐ当時の衛生対策で、それが店名になったというわけです。
高級料理店だけに牛鍋コースがメインですが、ぶつ切り牛鍋単品(2人前から)、すきやき(2人前から)、土・日曜、祝日の午後(12:00~15:00)のみ牛鍋御膳も用意。
子供用には牛はあみ焼で味わうお子様御膳があります。
盛夏の8月には夏の牛鍋懐石「葉月特別献立」もあり、こちらも人気です。
太田なわのれん | |
名称 | 太田なわのれん/太田なわのれん |
所在地 | 神奈川県横浜市中区末吉町1-15 |
関連HP | 太田なわのれん公式ホームページ |
電車・バスで | 京浜急行日ノ出町駅から徒歩7分。または、JR・横浜市営地下鉄関内駅から徒歩11分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 太田なわのれん TEL:045-261-0636/FAX:045-261-0659 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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