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土佐国衙跡

都佐国造(とさのくにつくりのみやっこ)の領域(土佐国東部)と波多国造(はたのくにつくりのみやっこ)の領域(土佐国西部)を合わせてつくられた古代の土佐国。国府は長岡郡にあり、南国市比江で国司が地方政治を行なった役所である国衙(こくが)の遺構が発掘されています。

紀貫之も国司として赴任し、京に帰る旅行記『土佐日記』誕生!

国衙があった町全体が国府、役所全体が国衙、国司が儀式や政治を行う施設を国庁と称しますが、土佐国衙跡は、武蔵国衙(東京都府中市/大國魂神社周辺)、周防国衙(山口県防府市国衙周辺)、伯耆国衙(鳥取県倉吉市国府周辺)、常陸国衙(石岡市/石岡市立石岡小学校)、近江国衙(大津市大江6丁目周辺)などと並び、古代の役所の遺構が発掘された貴重な例となっています。

三十六歌仙の一人、紀貫之(きのつらゆき)は、930(延長8)年に第48代土佐国司(土佐守)に任じられて土佐国衙に赴任。
935(承平5)年に任を解かれていますが、任を解かれて土佐国府を旅立ち、京へ帰る55日間の旅路を、書き手を女性に仮託し、仮名で日記風に綴った『土佐日記』(『土左日記』)を著しています。
12月21日に土佐国府発、1月12日に室津に至り、1月30日に阿波の水門(鳴門海峡)から沼島、2月1日に黒崎の松原(大阪府泉南郡岬町淡輪)に到達。2月16日、京に帰着しています。

南国市比江には「内裏」「国庁」「府中」などの字名が残り、国府があったことは明白です。
土佐の国衙に関しては発掘調査では、掘立柱建物跡や国衙関連と見られる柱穴や硯などの遺物が見つかっていますが、官衙の配置などはまだ明らかになっていません。
国庁という字名を根拠に、土佐国衙跡の碑が立っているだけで、正確な場所とはいえません。
紀貫之邸跡とされる場所も、「内裏」という字名から類推したもので、科学的な検証はありません。

土佐国分寺跡には、四国八十八ヶ所第29番霊場の国分寺が建っています。
土佐国分尼寺跡は定かでありませんが、比江廃寺跡(国の史跡)が国分尼寺跡だとする説もあります。

「土佐日記懐にあり散る桜 虚子」は、紀貫之邸跡に昭和19年、高浜虚子の古希祝いとして土佐出身の俳人・川田十雨らの龍巻会が建立した句碑。
昭和6年4月2日、高浜虚子は、当時の国分村に紀貫之邸跡を訪ねて、「土佐日記懐にあり散る桜」と詠んでいます。

南国市には、紀貫之船出の港「大湊公園」などもあり、土佐のまほろばの地となっています。

土佐国衙跡
名称 土佐国衙跡/とさこくがあと
所在地 高知県南国市比江
関連HP 南国市公式ホームページ
ドライブで 高知自動車道南国ICから約2.6km
駐車場 なし
問い合わせ 南国市生涯学習課 TEL:088-880-6569
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

紀貫之邸跡・古今集の庭

2017年12月18日

比江廃寺塔跡

2017年12月17日

国分寺(四国八十八ヶ所霊場第29番札所)

2017年9月18日

 

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