関ヶ原合戦、東軍勝利の「影の立役者」ともいわれるのが、小早川秀秋。比高180mほどで関ヶ原を眼下にする松尾山に陣取り、戦況を見守りながら、結果として西軍を裏切って東軍として参戦。合戦の最中、家康から鉄砲を陣中に撃たれて、ようやく重い腰を上げたというのは、後世の作り話で、史実とは異なります。
小早川秀秋はそもそも豊臣秀吉の親戚
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院の兄・木下家定(きのしたいえさだ)の五男で、天正10年(1582年)生誕。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の養子になり、高台院に育てられ、元服後は羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗っているので、生粋の豊臣ファミリー。
天正17年(1589年)、7歳で元服し、丹波国亀山城10万石の城主になっています。
当時は関白・豊臣秀次に次ぐ、秀吉の後継者と目されていました。
文禄2年(1593年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生誕したことで、後継の目はなくなり、小早川隆景の養子となったのです。
秀吉の朝鮮遠征・慶長の役では、朝鮮半島に渡って参戦していますが、朝鮮在陣中に、義父・小早川隆景が没しています。
朝鮮から帰国すると、越前国への減封転封という処置が下され、多くの家臣を解雇する羽目に陥っています。
秀吉没後に五大老連署の知行宛行状によって小早川秀秋は筑前・筑後に復領を許され、59万石と大幅に増加しています。
家康が催促の鉄砲を撃ったというのは作り話!?
59万石の大大名となった小早川秀秋、関ヶ原の合戦時は19歳の若さです。
前哨戦となった伏見城の戦いでは西軍として参戦。
関ヶ原では、松尾山城の改修を担当した伊藤盛正を追い出して、陣を構えています。
西軍の大谷吉継は、松尾山の真正面に陣を構えていますが、戦術に長けた大谷吉継が、小早川秀秋の裏切りを予測していたともいわれています。
合戦の火蓋が切られた後には、西軍の狼煙(のろし)に反応しないことから、小早川秀秋の裏切りを確信、600人の手勢で小早川勢を迎え撃ち(大谷吉継軍は総勢5700人)、松尾山までいったんは押し戻しています。
ただ、大谷吉継の大きな誤算は、小早川秀秋の抑えとして松尾山の山麓に配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が、小早川秀秋の東軍参戦を見て、やはり東軍に寝返ったことです。
こうして大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなったのです(ただし小早川秀秋の参戦は午後というのもどうも怪しい話で、開戦直後から東軍として参戦していた可能性が大)。
どうして、西軍を裏切ることになったのでしょう。
黒田長政による調略の成功とすれば、小早川秀秋を幼少時代に育てた高台院(北政所)の意向もあったのかもしれません。
黒田長政は浅野幸長(あさのよしなが=浅野幸長の母は、高台院の妹)と連名で小早川秀秋に書状「政所様へ相つゝき御馳走申さずては、叶わざる両人に候間」(『浅野幸長・黒田長政連署状』島根県立古代出雲歴史博物館蔵)を送っていますが、その内容は、家康側に傾いていた高台院(北政所)の名を出すことで、東軍に与することを促したのだといわれています。
悩み抜いて、家康から小早川陣営に鉄砲を討たれてようやく決断という話が流布されていますが、近年の研究では、関ヶ原の合戦直後の一次史料には登場せず、江戸時代の創作の可能性が大ということがわかっています(松尾山までは銃弾は届く距離ではなく、合戦の最中銃弾の音もかき消されてしまいます)。
さらに、関ヶ原合戦前夜には、すでに大垣城の石田三成は小早川秀秋の裏切りを知っていともいわれ、できれば中立でいてほしいくらいの気持ちで、突然の裏切りで驚いたというのはどうやら後世、ドラマチックにするための作り話のようです。
つまりは、開戦以前に、東軍勝利は決定づけられていた可能性が大きくなっています。
であれば、徳川本隊の秀忠軍が到着する前に決戦に臨んだ家康の対応にも納得がいきます。
東軍と西軍の間で、揺れ動いた小早川秀秋、19歳。
決して優柔不断ではありませんでした。
関ヶ原合戦で、小早川秀秋は東軍と西軍の間でなぜ悩んだ!? | |
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