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九華公園(桑名城)

木曽三川の河口に位置したことで、尾張、伊勢、美濃3国の、木材や米などの集散地となった桑名。近世城郭は、関ヶ原合戦直後の1601(慶長6)年、徳川家康が徳川四天王のひとり、本多忠勝を桑名に封じたことに始まります。現存するのは、三の丸堀の石垣や堀だけですが本丸、二の丸跡は九華公園として整備されています。

東海道の要衝で西国と七里の渡しを睨んだ名城

現存する外堀(旧東海道から眺望)
外堀の石垣は往時のものが現存
安祥松平家(徳川本家)の最古参の家臣である本多家。1616(元和2)年には本多忠勝(桑名藩初代藩主)の孫である本多忠刻が家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は路城に移封になるまで桑名城内に住んでいます。このことからも桑名がいかに重要な城だったかがよくわかります。

徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)のひとりでもある本多忠勝は桑名城を築いたほか、「慶長の町割り」といわれる城下町の大改造を行なっています。本多忠勝が築いた桑名城は、尾張・三河の玄関口でもあるため4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞を建築。

東海道沿いの要衝ということもあって、実戦的な構えで西国に睨みを利かしていました。築城開始当初には四天王の一人である井伊直政(『おんな城主 直虎』の井伊直虎は養母)も家臣を動員して普請の応援を行なったと伝えられています。

かつて「扇城」と呼ばれ、「海道の名城」とたたえられた城の面影は、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で新政府軍に敗れたこともあって、三の丸堀の石垣や堀割りに残すのみとなっています。
戊辰戦争では無血開城していますが、その証として新政府軍は辰巳櫓を焼き払っています。

三重県三重郡朝日町小向にある、名刹・浄泉坊(じょうせんぼう)の書院は桑名城の三の丸御殿を移築したものと伝えられています。

歌川広重『東海道五拾三次 桑名』

城跡公園は桜・ツツジ・菖蒲の名所

九華公園は、桑名城本丸・二の丸跡に造られた広さ7.2haの公園。昭和3年に松平定信の没後百年祭をきっかけに、九華公園として整備されたもの。設計者は、元桑名藩士で庭園史研究家・小沢圭次郎。

九華公園の園内には、松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公・守国公)を祀る鎮国守国神社(本丸跡)があり、桜・ツツジ・菖蒲の咲く頃には多くの人々が訪れます。本丸には天守台の石垣も現存しているのであわせて見学を。

七里の渡しの渡船場跡、つまりは揖斐川(いびがわ)の川湊に臨む蟠龍櫓(ばんりゅやぐらは)は、実は国土交通省水門統合管理所で、蟠龍櫓を外観復元したもの。二重櫓で1階は水門管理所、2階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。

桑名城三の丸跡に造られたのが、本多忠勝の銅像の立つ「吉之丸コミュニティーパーク」。堀川東岸(旧三之丸)の城壁は、かつての桑名城城壁の一部で、揖斐川に面する川口樋門(七里の渡し跡の東)から南大手橋に至る延長500mが現存し、市の文化財に指定されています。

また堀の横は歴史を語る公園、川口水門の東は「三之丸公園」として整備されてます。東海道桑名宿とともに歴史散策が楽しめエリアとなっているのです。

外観復元された蟠龍櫓
蟠龍櫓からの揖斐川、長良川河口堰方面
本丸に鎮座する鎮国守国神社の拝殿

正保城絵図に見る桑名城

伊勢桑名城中之絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。城の構造や町割り、石垣の高さ、堀の幅までが正確に記されています。

九華公園(桑名城)
名称 九華公園(桑名城)/きゅうかこうえん(くわなじょう)
所在地 三重県桑名市吉之丸
公式HP 桑名市公式ホームページ
電車・バスで JR・近鉄名古屋線桑名駅から市内循環バスで15分、本町下車、徒歩5分
ドライブで 東名阪自動車道桑名ICから約6km
駐車場 柿安コミュニティパーク駐車場(65台/有料)
問い合わせ 九華公園 TEL:0594-21-9932
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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