桑名宿・七里の渡し跡

東海道は宮宿(熱田宿=名古屋市熱田区)から「七里の渡し」で伊勢湾の海上を船で渡り(所要は3時間から4時間と推定されています)、揖斐川河口(桑名城の脇)に位置した桑名宿の渡船場に上陸しました。江戸時代の「海上国道」で、その渡し場の跡が桑名城跡近くに残されています。

桑名城の横に七里の渡しの渡船場が!

歌川広重『東海道五拾三次 桑名』

桑名宿は、江戸から42番目の宿場町として賑わいをみせ、最盛期には120軒の旅籠が軒を連ねました。
尾張との境には、揖斐川(いびがわ)、長良川(ながらがわ)、木曽川の「木曽三川」(きそさんせん)が流れ、文化の境にもなっていました。
桑名は関西弁訛ですが、名古屋は名古屋弁と言葉も大いに異なっています。

七里の渡しの渡船場には天明年間に建てられた「伊勢の国一の鳥居」が現存するほか、安政3年(1856年)と刻まれた常夜灯が多度神社から移築されています。

桑名宿からは津島神社の参拝道が分岐する佐屋宿(現・愛知県愛西市佐屋町)へ川路3里の渡船「三里の渡し」も行なわれていました(佐屋宿〜宮宿=佐屋街道)。
明治になって街道が廃れてからも、大垣とを結ぶ揖斐川の川船の発着場として機能していました。

常夜燈と「伊勢の国一の鳥居」が現存

伊勢の国一の鳥居
傍らには桑名城が
防波堤の外は揖斐川です
渡し場に建つ大鳥居は、下船後に伊勢路を歩くため「伊勢国一の鳥居」と称され、現在も神宮(伊勢神宮)の遷宮ごとに建て替えられているのです。

「伊勢国一の鳥居」は江戸時代の天明年間(1781年〜1789年)に伊勢国の初めの地にふさわしい鳥居をと願い、桑名片町の商人・矢田甚右衛門、船馬町の大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたのが始まり。明治以降になって、遷宮ごとに宇治橋外側の鳥居が移されるようになりました。

常夜燈は1833(天保4)年に遠く江戸や地元・桑名の人達の寄進によって鍛冶町の東海道筋に建立されたもの。
伊勢湾台風で倒壊し、その後、上部のみ多度大社から移したもので補修され、安政3年(1856年)の銘が刻まれています。

渡し場のある川口町から町屋橋までの4kmには旧東海道が現存。
東海道が制定された際に、なぜ伊勢湾だけ海路が選定されたのかは、尾張国(愛知県東部)から以東への軍事的な理由(大軍の迅速な進軍を阻む)からと推測されています。

桑名宿の名物は時雨蛤(しぐれはまぐり)
桑名宿・七里の渡し跡
名称 桑名宿・七里の渡し跡/くわなしゅく・しちりのわたしあと
所在地 三重県桑名市船馬町
関連HP 桑名市観光ガイド公式サイト
電車・バスで JR・近鉄名古屋線桑名駅から徒歩20分
ドライブで 東名阪自動車道桑名ICから約2km
駐車場 桑名七里の渡し公園暫定駐車場(14台/無料)・市営吉之丸コミュニティパーク駐車場(65台/有料)
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
桑名宗社・青銅鳥居

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