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伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)

伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)

現在の三重県の伊賀地方、志摩地方を除く大部分が伊勢国(いせのくに)。現在の県庁所在地にあたる国府があったのが鈴鹿市。鈴鹿川中流北側の河岸段丘上にある長者屋敷遺跡と呼ばれる場所からは、古代の瓦などが大量に出土し、発掘調査から政庁跡や官衙(かんが=官庁)と思われるの遺構が多数確認され、伊勢国府跡と認定されています。

大伴家持も国司としてここに赴任!

伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)の南側には鈴鹿川が流れ、国道1号(東海道)が通っています。
さらに西側には日本武尊墓という伝承のある能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)があり、また鈴鹿市加佐登町の第二号古墳からは、和同開珎よりも古い直径3㎝の無文銭が発見され、古代から拓けた地であることがわかります。

平安時代中期の承平年間(931年〜938年)に編纂された『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に、伊勢国の国府は鈴鹿郡にあると記されています。
明治22年の『伊勢名勝誌』には「鈴鹿王ノ宅址ナリ」と記され、さらに前九年の役の際に、源頼家が投宿したという伝承を紹介しています。

ただし、初期の国府、後期の国府は、南3.5kmに位置する鈴鹿市国府町あたりにあったと推測され、長者屋敷遺跡は奈良時代中頃から後半にかけての国府だったことが判明しています。
つまり、国分寺建立の詔の出された天平13年(741年)頃に築造されたと推測され、宝亀7年(776年)には国司として万葉歌人として名高い大伴家持(おおとものやかもち)も赴任しています。

国府の中心的な官庁である政庁は、東西600m・南北800mに及ぶ伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)の南端に位置しています(国道1号からの伊勢国府跡という案内表示はこの政庁跡を示しています)。

国司が勤務した伊勢国府の政庁(伊勢国庁)は、正殿(せいでん)、後殿(こうでん)、脇殿、軒廊(こんろう)などが配され、周囲には防御的に東西80m、南北110mの築地塀が巡らされ、さらにその外側に堀が掘られていました。
建物の配置や規模は近江国庁に類似しています。

なぜ長者屋敷と呼ばれているのかといえば、ここに住んでいた長者が財宝を埋め、村が困窮した際、丘の側の大石の下を掘り出せと語ったという「金藪」伝説が残されているから。
「金藪」と伝わる森は、政庁跡の北側の円墳。
政庁跡と金藪を結ぶ幅12mにも及ぶ道路跡も判明し、道路の左右には古代の役所である官衙が並んでいたことも判明していました。

伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)
名称 伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)/いせこくふあと(ちょうじゃやしきいせき)
所在地 三重県鈴鹿市広瀬町南野
関連HP 鈴鹿市公式ホームページ
電車・バスで JR関西本線加佐登駅からタクシーで5分
ドライブで 東名阪自動車道鈴鹿ICから約6.6km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 鈴鹿市文化振興部文化課 TEL:059-382-9031
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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