宮城県白石市にある続日本100名城にも選定される平山城が白石城(しろいしじょう)。仙台藩伊達氏の支城で、江戸時代の一国一城制の例外的な存在として明治維新まで存続しました。天守の代用として三階櫓が聳えていましたが明治の廃城令で破却。現在の三階櫓は、平成7年に吉野産ヒノキ、青森産のヒバなど木造で復元したものです。
木造で復元された三階櫓がそびえる
白石城の築城年代は定かでありませんが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置(小田原の北条氏を制圧後、宇都宮で行なわれた東北諸将の再配置)で、秀吉配下の蒲生氏郷(がもううじさと)が会津周辺を領有、白石城(当時の呼称は益岡城)に家臣の蒲生郷成(がもうさとなり)が入城しています。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が越後から会津120万石へと加増されると、家臣・甘糟景継(あまかすかげつぐ)が入城。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦を前にして石田三成と懇意だった上杉景勝に対し、徳川家康は会津征伐を実行、白石城を舞台とする白石城の戦い(伊達政宗軍と上杉景勝軍が激突)が勃発します。
白石の地理に明るい伊達政宗軍が白石城を制圧します。
関ヶ原合戦後の慶長7年(1602年)、伊達政宗の側近・片倉景綱が入城。
以降、元和の一国一城令以降も例外的に仙台藩の支城として残され、片倉家が城を守っています。
幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際、薩長連合に対抗するための奧羽越列藩同盟(31藩)の盟約(白石会議)は、この白石城で締結されています。
昭和62年のNHKの大河ドラマ『独眼竜正宗』(主演:渡辺謙)の大ヒット(平均視聴率39.7%は歴代トップ)で、伊達政宗の忠臣・片倉景綱、白石城の戦いが注目され、白石城復元の機運が高まり、平成7年3月に三階櫓、大手一ノ門、大手二ノ門、土塀が復元。
復元された三階櫓の建築面積は86坪、全高55尺(16m)で、戦後の木造復元天守では日本最大級を誇っています。
石垣には蔵王・松川産安山岩3000tを使用し、自然石をそのまま積み上げる野面積み(のづらづみ)で組んでいます。
本丸と二の丸跡は、益岡公園として整備され、桜の名所にもなっています。
公園内には白石城歴史探訪ミュージアム、城下には武家屋敷旧小関家もあるのであわせて見学を。
関ヶ原の戦いと白石城
関ヶ原合戦は、上杉景勝と徳川家康の関係が悪化し、家康の上洛要求を上杉景勝が拒絶したことが発端。
上杉景勝討伐軍を会津に送り、家康自身も東進するという手薄さを突いて、石田三成が挙兵したのです。
上杉景勝は、石田三成と懇意で、家康軍を会津に引き付けることは石田三成にとっては、まさに家康打倒の好機だったのです。
そんなことは計算づくであったろう、家康は伏見城から会津を目指して東進。
下野国小山(現・栃木県小山市)で石田三成の決起を知り、「小山評定」が行なわれ(大坂に妻子を残した豊臣諸将の去就が家康にとっては興亡の境目でした)、福島正則、山内一豊の建議が諸将の心に響き(東軍の結束をもたらしたというのが通説です)、家康軍は会津討伐を断念して西へと転戦します。
そのため会津攻め、白石城攻めは伊達政宗軍のみとなり、白石城陥落後も続いたゲリラ戦の対応で、伊達政宗は関ヶ原の戦いに参戦することができず、窮地に立たされることになったのです。
白石城 | |
名称 | 白石城/しろいしじょう |
所在地 | 宮城県白石市益岡町1-16 |
関連HP | 白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷公式ホームページ |
電車・バスで | JR白石駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東北自動車道白石ICから約6km |
駐車場 | 城下広場駐車場、益岡公園駐車場を利用 |
問い合わせ | 白石城・歴史探訪ミュージアム・武家屋敷 TEL:0224-24-3030/FAX:0224-24-3033 |
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