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仙台城本丸跡・『荒城の月』歌碑

仙台城本丸跡・『荒城の月』歌碑

宮城県仙台市青葉区、伊達政宗の騎馬像で有名な仙台城本丸跡ですが、騎馬像近くにあるのが『荒城の月』歌碑と土井晩翠(どいばんすい)の胸像。瀧廉太郎の作曲で有名な『荒城の月』は、仙台出身の詩人、土井晩翠の作詞で、仙台城(青葉城)、会津若松の鶴ヶ城をイメージして作詞したともいわれています。

『荒城の月』は土井晩翠が仙台城をモチーフに作詞!?

土井晩翠は、明治4年10月23日(1871年12月5日)、仙台県仙台北鍛冶町(現・宮城県仙台市青葉区木町通2丁目に、富裕な質屋の長男として生誕。
旧制第二高等中学校(後の東北大学)、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)を卒業後、明治33年、故郷仙台に戻り、母校・第二高等学校の教授に就任。

明治34年、『荒城の月』を収録した東京音楽学校編『中学唱歌集』が刊行されているので、仙台城(青葉城)が作詞のモチーフになっている可能性が大ということに。

土井晩翠と、作曲家・滝廉太郎は、作詞後の明治35年8月、欧州遊学中に一度だけ会ったという関係で、唱歌用の作詩を委嘱された土井晩翠は、仙台城、鶴ヶ城を念頭に詩を創作。
そして唱歌の懸賞応募作品の曲が採用された瀧廉太郎は、少年時代を過ごした岡城(大分県竹田市)に曲想を得て『荒城の月』を作曲したのです。

ゆかりの地として『荒城の月』の歌碑は、福島県会津若松市の鶴ヶ城の茶室麟閣脇、富山県富山市のの富山城内(土井晩翠は父の転勤で、富山城内にあった富山県尋常師範学校附属小学校に通学)、東京都千代田区の滝廉太郎旧宅跡、大分県竹田市の岡城本丸跡、竹田市の竹田市役所前などにもあります。

仙台市青葉区の青葉通沿いには、土井晩翠が晩年を過ごした旧宅「晩翠草堂」もあるので、合わせて見学を。
墓所は若林区の大林寺です。

仙台城本丸跡・『荒城の月』歌碑
名称 仙台城本丸跡・『荒城の月』歌碑/せんだいじょうほんまるあと・『こうじょうのつき』かひ
所在地 宮城県仙台市青葉区川内1
電車・バスで JR仙台駅西口バスプールから仙台市営バス青葉城循環で20分、青葉城址下車
ドライブで 東北自動車道仙台宮城ICから約6.8km
駐車場 150台/有料
問い合わせ 仙台市教育局文化財課 TEL:022-214-8544/FAX:022-214-8399
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

仙台城本丸跡

仙台藩の初代藩主・伊達政宗が関ヶ原合戦直後の慶長5年(1600年)12月に縄張りを開始し、慶長7年(1602年)5月に完成した仙台城。本丸跡も建物などの遺構は失われ、本丸北壁の石垣、本丸西側の堀切や土塁に往時を偲ぶのみとなっています。本丸跡

鶴ヶ城・『荒城の月』歌碑

福島県会津若松市、会津藩の藩庁で、幕末の戊辰戦争の舞台となった鶴ヶ城。鶴ヶ城本丸跡、茶室麟閣の南に立つのが『荒城の月』歌碑。瀧廉太郎の作曲で有名な『荒城の月』は、仙台出身の詩人、土井晩翠の作詞で、仙台城(青葉城)、会津若松の鶴ヶ城をイメージ

岡城・滝廉太郎銅像

大分県竹田市竹田、岡城の二の丸跡に立つのが、滝廉太郎銅像。作曲家・滝廉太郎(瀧廉太郎)は、土井晩翠作詞の『荒城の月』の作曲で有名。旧制中学校唱歌の懸賞募集の作品で、岡城をイメージして作曲したといわれ、銅像は、滝廉太郎と同窓で4歳年下の朝倉文

晩翠草堂

宮城県仙台市青葉区、仙台市の中心街にあるのが、『荒城の月』の作詞で有名な土井晩翠の文学館が晩翠草堂。土井晩翠が最晩年に過ごした邸宅を再生したもので、昭和20年7月10日の空襲で焼けた後、昭和24年に再建した建物です。土井晩翠が晩年暮らした家

 

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