飫肥院の跡とも伝わる飫肥城(おびじょう)はいつ頃の築城は定かではないが、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められ秀吉から賜り、以降280年あまり飫肥藩伊東氏5万1000石の居城となりました。宮崎県では唯一の「日本100名城」選定の城になっています。
島津氏と伊東氏が103年に渡って攻防を続けた日向の名城
飫肥城は宇佐八幡宮の社人という土持氏(つちもちし=日向国の荘園領主で、日向国北部を中心に勢力を有した)が南北朝時代に築城したという飫肥院が始まり。
伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族・伊東氏は日向国へ下向し、土持氏の娘と婚姻関係を結んで勢力を拡大します。
1458(長禄2)年には、日向国で力をつけた伊東氏の南下を牽制して島津氏が新納忠続(にいろただつぐ)を飫肥城に入城させています。
1567(永禄10)年、伊東義祐が飫肥城を奪取するなど戦国時代の103年間は島津氏との激しい攻防が繰り広げられ、難攻不落の名城として全国にその名を轟かせています。
飫肥を失った伊東祐兵(いとうすけたけ)は、羽柴秀吉に仕えて、本能寺の変直後の1582(天正10)年の山崎の戦いで活躍。
1587(天正15)年、秀吉の九州平定に参加し功績をあげます。
1588(天正16)年に旧地である飫肥城を取り戻し、3万6000石に加増されています。
1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦では西軍に与しますが病床にあったため出兵せず、黒田孝高を頼って徳川家康に通じ、ついには西軍の高橋元種の属城である宮崎城を攻撃占領するなど、東軍に寝返って、徳川家康から所領を安堵されています。
廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで、転封されることなく、一貫して伊東氏が飫肥藩の藩主を務めました。
伊東氏・島津氏が戦国時代に103年にわたって、城を巡って攻防したこと、藩政時代には伊東氏が藩主を全うしたことは、稀有の例といえるでしょう。
本丸の一部には飫肥杉の美林が
縄張りとしては大手門を入った西側に松尾の丸、大手門の奥の西側の高台が本丸でしたが、江戸時代の中期に地震で本丸に地崩れが生じて、新本丸を中の丸(大手門から北に直進した高台)に移しています。
シラス台地の構造をそのまま巧みに活かした平山城となっています。
城郭は残念ながら明治時代に破却されていますが、大手門は昭和53年に飫肥の百年杉を使って復元。
搦め手(裏門)側の本丸北門(薬医門)も復元されています。
さらに昭和54年に江戸時代初期の書院造りの城主の居館「松尾の丸」の御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵を、飫肥の百年杉を使って往時の姿に復元しています(有料施設で共通券で入館可能)。
広い敷地内には御殿を模した飫肥城歴史資料館なども建てられています。
本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校振徳堂が前身)が建てられ、往時を偲ぶものは少なくなっています。
本丸跡の杉林は、平成16年に放映されたNHK連続テレビ小説『わかば』のロケ地。
また、飫肥城の城下町には、旧藩校振徳堂、最後の藩主伊東祐帰(すけより)が住んだ邸宅である豫章館、小村寿太郎生家などもあり、飫肥城を含めて日南市飫肥重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
飫肥城 | |
名称 | 飫肥城/おびじょう |
所在地 | 宮崎県日南市飫肥10-1-2 |
関連HP | 日南市観光協会公式ホームページ 飫肥城下町保存会公式ホームページ |
電車・バスで | JR飫肥駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東九州自動車道日南東郷ICから約4.5km |
駐車場 | 飫肥城観光駐車場(159台/無料) |
問い合わせ | 日南市観光協会 TEL:0987-31-1134/FAX:0987-23-3100 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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