振徳堂

振徳堂

第31代飫肥藩主・伊東祐相(いとうすけとも)の命で、江戸時代後期の天保2年(1831年)に開設した飫肥藩の藩校が振徳堂(しんとくどう)。石垣に囲まれた広い敷地内に、長屋門と主屋が保存されています。明治時代、外交官として活躍した小村寿太郎も飫肥藩士の子弟だったため、この振徳堂で学び、才能を見いだされています。

幕末に再興した飫肥藩の藩校

安井滄洲(やすいそうしゅう/清武郷中野で郷校「明教堂」を開校)は総裁兼教授、息子の安井息軒(やすいそっけん/昌平坂学問所に入学し、藩主・伊東祐相の江戸での学問係を担当)は助教に任命され、一家で飫肥城下に移住して教鞭を振るいました。

振徳堂という名は孟子の教えにある「又従而振徳之」(また疑いてこれを振徳せり)から。

幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行なった明治の政治家・小村寿太郎もこの藩校で学んだ後、明治3年に大学南校(東京大学の前身)に入学。さらに第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学している。

ちなみに、森鷗外の小説『安井夫人』もモデルは、安井息軒の妻・佐代。
安井息軒の残した有名な言葉は、「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」です。

振徳堂
名称 振徳堂/しんとくどう
所在地 宮崎県日南市飫肥10-2-1
関連HP 日南市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR飫肥駅から徒歩10分
ドライブで 東九州自動車道日南東郷ICから約4.5km
駐車場 飫肥城観光駐車場(159台/無料)
問い合わせ 日南市観光協会 TEL:0987-31-1134/FAX:0987-23-3100
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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