奈良県吉野郡吉野町、吉野山・奥千本の金峯神社近くにあるのが、義経隠れ塔。吉野山の伝承などでは、源義経と静御前が、追討の追っ手から身を隠したのが吉水院(現在の吉水神社)。大峯山は当時女人禁制だったため、この地で義経と静は別れ、義経一行は青根ヶ峰近くの小さな堂に身を隠したのです。
静御前と分かれた義経はこの地に隠れ潜んだ!?
源義経が身を隠した堂と伝わるのが、金峯神社拝殿近くにある義経隠れ塔。
文治元年(1185年)11月、義経がこの塔に隠れ潜んだのだと伝えられています。
文治元年11月13日(1185年12月6日)に発せられた後白河法皇の義経捕縛の院宣(いんぜん)は15日に吉野山に届いています。
鎌倉の武力を背景に、朝廷まで味方に付けたのではと、源義経一行は現在の金峯神社の地へと逃れ、さらに追っ手が迫ると宮滝の方へ落ち逃れたと伝えられます。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』、文治元年11月17日の項には、「豫州大和の国吉野山に籠もるの由風聞するの間、執行悪僧等を相催し、日来山林を索むと雖も、その実無きの処、今夜亥の刻、豫州の妾静、当山藤尾坂より降り蔵王堂に到る。その躰尤も奇怪。衆徒等これを見咎め、相具し執行坊に向かう。具に子細を問うに、静云く、吾はこれ九郎大夫判官(今伊豫の守)の妾なり。大物浜より豫州この山に来たり。五箇日逗留するの処、衆徒蜂起の由風聞するに依って、伊豫の守は山臥の姿を仮て逐電しをはんぬ。時に数多の金銀類を我に與え、雑色男等を付け京に送らんと欲す」と記され、静御前が源義経とともに吉野山に逃れ、静だけが吉野山で捕縛され、義経は山伏の格好で逃亡したことがわかります。
11月18日の項には、「静の説に就いて、豫州を捜し求めんが為、吉野の大衆等また山谷を蹈む。静は、執行頗る憐愍せしめ、相労るの後、鎌倉に進すべきの由を称すと」と記されることから、吉野山全山をくまなく探索していることがうかがえ、この時すでに義経は下山していたと推測できます。
当時義経隠れ塔も、平安時代末期には五重の大塔だったと伝えられ、今の質素な塔(大正初年の再建)とは大きく異なります。
追っ手に囲まれた源義経が屋根を蹴破って逃げたといわれ、「蹴抜の塔(けのけのとう)」とも呼ばれています。
義経隠れ塔の建つ場所は、世界遺産に登録される吉野山・蔵王堂と大峰山、熊野本宮を結ぶ大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の途中。
吉野から本宮に向かうのは逆峯(ぎゃくふ)にあたり、75の靡のうち、第73が蔵王堂、第72が水分神社(みくまりじんじゃ)、第71が金峯神社(神仏分離以前は、金精明神で、本地仏は阿閦如来、釈迦如来、大日如来)です。
金峯神社(金精明神)は、金峯山の総地主神(もともと地域に根ざしその地を守護する神)で、平安時代末期には、この社前に女人結界がありました。
義経隠れ塔 | |
名称 | 義経隠れ塔/よしつねかくれとう |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山 |
電車・バスで | 近鉄吉野駅からタクシーで30分。または、ロープウェイ吉野山駅から徒歩1時間40分 |
ドライブで | 西名阪自動車道郡山ICから約43km |
駐車場 | 20台/無料、義経隠れ塔下林道横 |
問い合わせ | 吉野町観光案内所 TEL:0746-39-9237/FAX:0746-39-9178 |
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