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段ノ塚古墳(舒明天皇陵)

段ノ塚古墳

奈良県桜井市忍坂にある宮内庁が第34代舒明天皇(じょめいてんのう)の押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)に治定(じじょう)する古墳が、段ノ塚古墳(だんのづかこふん)。7世紀中頃(古墳時代終末期)、天皇陵として最初に築かれた日本独自の八角墳です。

天皇陵として初めて八角墳を採用した古墳

外鎌山(忍坂山)から南に伸びる尾根の先端に古墳が築造され、台形状の方形壇(3段で構成)の上に八角形の墳丘をのせる独特のスタイル。
宮内庁の治定では墳形は上円下方墳となっていますが、正確にいえば上八角下方墳。
八角部は2段築成で、下段の対辺間距離は42m、方形壇の最下段は1辺105mという大きな古墳です。

八角墳は、大規模な人力と財力を必要とする前方後円墳が築かれなくなった後、皇族や有力豪族が採用した方墳や円墳に替わるもので、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという中国・道教の影響を受けています。
天皇陵として初めて八角墳を採用した古墳

近くの支尾根には天武天皇の妃で、後に藤原鎌足の正室となった鏡女王(かがみのひめみこ)の忍阪墓(おしさかぼ)、欽明天皇の皇女である大伴皇女忍阪墓があり、宮内庁が管理しています。

平安時代前期に編纂された『延喜諸陵式』に、鏡女王の陵墓は、舒明天皇の陵墓の領域内にあると記録されていますが、鏡女王の素性は謎に包まれており、舒明天皇との関係は定かでありません(舒明天皇の皇女ないし皇孫だという説も)。

八角墳の天皇陵としては、明日香村の野口王墓(天武天皇・持統天皇檜隈大内陵)、中尾山古墳(第42代文武天皇の真陵とする説が有力)、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん/斉明天皇の陵墓という可能性が大)、京都市山科区の御廟野古墳(天智天皇山科陵)などが知られています。

段ノ塚古墳(舒明天皇陵)
名称 段ノ塚古墳(舒明天皇陵)/だんのづかこふん(じょめいてんのうのみささぎ)
所在地 奈良県桜井市忍阪
関連HP 桜井市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 近鉄大和朝倉駅から徒歩20分
ドライブで 西名阪自動車道天理ICから約15km
駐車場 あり/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

野口王墓(天武・持統天皇陵)

奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代(古墳時代終末期)の687年(持統天皇元年)に築かれたと推測される八角墳が、野口王墓(のぐちのおうのはか)。宮内庁は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)として、天武・持統天皇陵に治定。世界遺産を目指す

中尾山古墳

奈良県高市郡明日香村にある栗原塚穴古墳(文武天皇陵)から北に延びる丘陵頂部にあるのが、中尾山古墳。古墳築造の最終末期、8世紀初頭に築かれた八角墳で、25歳の若さで崩御した文武天皇(もんむてんのう)の真陵ではないかと推測され、世界遺産を目指す

牽牛子塚古墳

奈良県高市郡明日香村にある国の史跡に指定される八角墳が、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)。平成21年〜平成22年の発掘調査で、古墳時代終末期(飛鳥時代)の八角墳であることが判明。飛鳥京を築いた第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵の可能

御廟野古墳(天智天皇山科陵)

京都市山科区にある御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、7世紀末~8世紀、つまりは古墳時代終末期の古墳。形状は、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという道教の影響を受けた正八角形の八角墳で、第38代天智天皇の陵墓だと宮内庁により治定され、山科

 

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