中尾山古墳

中尾山古墳

奈良県高市郡明日香村にある栗原塚穴古墳(文武天皇陵)から北に延びる丘陵頂部に築造された古墳が、中尾山古墳。古墳築造の最終末期、8世紀初頭に築かれた八角墳で、697年8月22日〜707年7月18日に在位し、大宝律令を完成させた文武天皇の真陵ではないかと推測されています。

大宝律令を制定した文武天皇の陵墓の可能性が大

中尾山古墳
令和2年の発掘調査時の様子

八角形の墳墓は、天皇が即位式でのぼる高御座(たかみくら)と同じで、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想で築かれたと推測できます。
天皇陵は、前方後円墳→ →大型円墳・大型方墳(石舞台古墳、推古天皇陵)→上八角下方墳→八角墳と移り変わり、古墳が小規模化されながら天皇家だけに許された八角形墳の誕生は、飛鳥時代に天皇の権力と律令制が強化されたことを示しているのです。

中尾山古墳が文武天皇の陵墓とする考えは、享保21年(1736年)に並河永が著した『大和志』にも文文武陵は「「平田村に在り、俗に中尾石墓と呼ぶ」と記されていることから、すでに江戸時代には文武天皇陵と考えられていたことがわかります。
令和2年に行なわれた関西大学文学部考古学研究室と奈良県明日香村教育委員会の調査(「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産を目指しての調査)で、墳丘が正八角形の八角形墳と確認され、3段築成の墳丘の周囲に3重の石敷きを巡らせていたこと、埋葬するための石室の具体的構造など全容が判明。
使用された石材の総重量は560tにも及び、その築造には2万人の労働者が従事したと推定され(高松塚古墳の4倍)、石室内部の加工度合いや天皇陵に特有の八角墳であることなどから、文武天皇の陵墓の可能性がさらに高まっています。

明日香村の八角墳としては、宮内庁から檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に治定される野口王墓(のぐちのおうのはか)が有名で、中尾山古墳とともに大化2年(646年)の薄葬令(はくそうれい=民の負担を軽減するため、身分に応じて造営可能な陵墓を制限)以降の、最終末期の古墳です(時代区分では592年に崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されて以降は飛鳥時代ですが、古墳が盛んに築かれた時代=古墳時代という定義から古墳時代の終末期ともいえるのです)。

中尾山古墳周辺には野口王墓のほかにも、同じ八角墳で、第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が大の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)、高松塚古墳(694年〜710年=藤原京期に築造の円墳)など多くの終末期古墳があります。

中尾山古墳
名称 中尾山古墳/なかおやまこふん
所在地 奈良県高市郡明日香村
関連HP 明日香村公式ホームページ
電車・バスで 近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩15分
ドライブで 西名阪自動車道郡山ICから約20km
駐車場 飛鳥歴史公園高松塚地区駐車場(36台/無料)
問い合わせ 飛鳥管理センター TEL:0744-54-2441
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

高松塚古墳

飛鳥地方の西南部、桧隈(ひのくま)と呼ばれる渡来人の里(飛鳥歴史公園内高松塚周辺地区)に位置する直径18m(上段)、高さ5mの円墳が高松塚古墳。藤原京期(694年~710年)の築造で、被葬者は特定されておらず、天武天皇の皇子説、臣下説、朝鮮

野口王墓(天武・持統天皇陵)

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牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

奈良県高市郡明日香村にある国の史跡に指定される八角墳が、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)。平成21年〜平成22年の発掘調査で、古墳時代終末期(飛鳥時代)の八角墳であることが判明し、第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵の可能性が高まって

 

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