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長岡城本丸跡

長岡城本丸跡

JR長岡駅・大手口の駅前広場に立つ「長岡城本丸跡の碑」。もともと本丸は現在の長岡駅が建つ場所にありましたが、明治元年・慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争のため焼失し、廃城に。その後、公園にもなりましたが明治31年6月16日、北越鉄道線長岡駅(現・JR長岡駅)の開業に伴って本丸の遺構は完全に失われています。

JR長岡駅大手口の噴水付近には御三階が建っていた!

堀直竒(なおより)が、この地に築城を計画したのは、古志長尾氏の居城だった蔵王堂城が、信濃川河岸(西蔵王)に近く、たびたび水害に悩まされていたため。
そのため河岸からやや東側内陸の当地が選ばれたのです。

近世城郭としては、譜代大名として長岡藩を立藩した牧野忠成(まきのただなり)。
三河国牛久保城主(現・愛知県豊川市牛久保町)だった牧野忠成は、徳川家康に仕えて出世。
その後、徳川秀忠の世となった元和4年(1618年)に長岡に入ります。

長岡城は、西に新潟湊と舟運で結ぶ大河・信濃川が流れ、赤川から引き入れた「御堀」と呼ばれる堀を幾重にも巡らせており、北東には八丁沖という沼地、東南は山に囲まれていました。
その様子から「八文字の構えの浮島の城」とも呼ばれていました。

平城で、もっとも高い場所に本丸、さらに二の丸、三の丸、詰の丸、曲輪などを配していますが、本丸にも天守を持たずに三階櫓で代用するなど、まさに平和な時代を意識しての築城です。

本丸にはシンボル的な御三階(おさんがい)を備え、二の丸はおもに兵糧庫、そして三の丸には御会所、武器役所、作事所、勘定所など、長岡藩の重要な役所が配されていました。
現在のJR長岡駅大手口の噴水付近にあったという御三階は高さ23m。
優美な曲線を取り入れた飾り窓や唐破風、「常在戦場」の気風を表わして鉄砲狭間も配されていたと推測されています。

これは牧野忠成が、江戸城の築城を見ており、実戦的な防備を意識しながらも江戸城の有する平和的な構造を活かしたともいわれています。

城内には9の櫓、17の城門を備え、侍と家族8000人、町人と商人8000人、あわせて1万8000人が暮らし、本丸と二の丸を除くと庶民の立ち入りも許されていました。

北越戊辰戦争では、河井継之助率いる長岡藩軍と新政府軍の激戦の地となっています。

正保城絵図に見る 長岡城

正保城絵図
長岡城本丸跡
名称 長岡城本丸跡/ながおかじょうほんまるあと
所在地 新潟県長岡市大手通1JR長岡駅前広場
関連HP 長岡市公式ホームページ
電車・バスで JR長岡駅から徒歩2分
ドライブで 関越自動車道長岡ICから約6.2km
駐車場 アオーレ長岡地下駐車場(103台/有料)・大手口駐車場(191台/30分まで無料、以降有料)・大手通地下駐車場(190台/有料)など利用
問い合わせ 長岡市観光企画課 TEL:0258-39-2344
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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